人生の意味(哲学・思想・心理学)ブックリスト

『幸福と人生の意味の哲学 なぜ私たちは生きていかねばならないのか』山口尚(トランスビュー)

哲学の意義と限界、哲学者としての役割やレスポンシビリティーを常に念頭に置きながら、哲学の根本問題であり最大問題でもある「幸福」と「人生の意味」を様々な哲学の幸福論と人生の意味論、文学、ノンフィクション、ルポルタージュの様々な幸福と不幸の例を挙げながら別問題・別概念として誠実に精緻に検討する。

幸福と人生の意味という二つの「語りえぬこと」を徹底的に考えることで幸福と有意味な人生のあり方を捉えようとする。不幸や死、人生の無意味さの実際や条件、構造を直視しながら、アイロニーの必要性(一歩引いて没頭する自己を見ること)、それらが弁証法的に人生と幸福に与える意義も含めて、人生の意味の意味や構造。幸福の本質や根源、構成を誠実に詳細に考察しながらそのあり方に迫る。超越的な人生の意味の哲学的本質と幸福の根本的条件や性質、それらの語りえぬあり方、その「語りえぬもの」の「語りえなさ」を尊重しながら、哲学者の自らの事として自らの問題として考え抜く。

そして、本書は「幸福こそが人生の意味だ」(p.238)と結論づける。生活や活動の軌跡が超越な意味として浮かびあがり、存在や生命の神秘や尊厳を感じただそれらを信じることが幸福だという。

「どう生きるべきか」や「有意味な生き方とはどのようなものか」という問いに対しては、問いの形式に引きずられて、ついつい「……と生きるべきだ」や「……が有意味な生き方だ」と答えたくなります。そしてこのような形の答えこそが、人生の意味の哲学に多くのひとが期待するものなのかもしれません。現にーー次節で考察するようにーーこれまで多くの哲学者が特定のタイプの生き方を取り上げ、それを「有意味なもの」と見なしてきました。これに対して本書では、この方向へ進まないことが重要だ、と主張したい。すなわち、「有意味な生き方とはどのようなものか」に関しては、具体的な答えが与えられない状態に耐えることが重要だ、と言いたいわけです。(pp.158 – 159)

『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)

「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。

「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。

「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。

「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。

主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。

真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。

こうして私たちは、さまざまな「無意味」の出現にさらされ、それとの戦いのなかで、おのれの「意味」ある人生の歩みを、打ち立てねばならない存在であり、まことに苦悩と格闘の人生が、私たちの生存そのもの真実だと言わねばならないと思う。私たちが、宗教や芸術や道徳や哲学、さらには学問や科学を発達させ、ひいては、歴史的社会の多様な形成や、自然的環境世界との共生にもとづく調和と発展の努力も積み重ねるのも、こうした「無意味」の出現と戦うためであり、すべては、「意味」ある世界を築き上げるための努力であると言わねばならない。さらに、個々人としても私たちは、人生遍歴のただなかで、さまざまな「無意味」の出現と格闘しながら、各自が、自分自身の人生の「意味」をまさに生きているのである。「生きがい」とは、とりも直さず、この「人生の意味」のことにほかならないであろう。(p.407)

目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引

『人生の意味とは何か(フィギュール彩)』テリー・イーグルトン、彩流社

『人生に意味はあるのか』諸富祥彦(講談社現代新書)

心理学者でありカウンセラーでもある筆者が自身のカウンセリングと大学での「人生に意味はあるか」というテーマでの授業でのディスカッションから現代の生きる意味の喪失の実相について述べる。次に、宗教と文学(五木寛之、親鸞、トルストイ、ゲーテ)、哲学(トマス・ネーゲル、渋谷治美、宮台真司、ニーチェ)、スピリチュアル(飯田史彦、キューブラー・ロス、『チベット死者の書』、玄侑宗久、上田紀行、江原啓之)、筆者が専門とするヴィクトール・フランクルのロゴテラピーあるいは実存分析、それらの人生の意味論を紹介・検証する。終章で、筆者が人生の意味について悩みぬいた末にそれに覚醒し把握した経緯と、筆者が考える人生の意味のあり方や構造、そして、人生の意味と目的や「私」との関係についての一定の答えを述べる。

筆者は「人生には意味がある」と簡単には結論せず、無意味やその絶望感と真摯に向かい合い、「人生に意味はない」という意見も否定せずよく検討し、人生の意味の本質に迫ろうとする。また、哲学による「意味の無さや虚無、絶望に耐えることが人生の意味」とクールで原理的な態度だけを支持せず、文学や宗教による体験としての人生の意味の問題、スピリチュアルによる心のあり方としての人生の意味、フランクルによる発見するものとしての人生の意味も視野に入れる。そして、終章では、人生の意味の語りえなさ、人生の意味の無さと絶望とも誠実に向き合いながら、筆者がある覚醒によって発見した「存在者や魂や宇宙の存在の謎とそれらへの驚き、存在や生命が在ることとそのアクティヴな働きへの気づきと感動」というような哲学的かつ宗教的な人生の意味についての問いへの回答を述べる。

この「はたらき」は、天然自然、意味無意味を超えた「いのちのはたらき」です。その意味でそれは、超・意味です。またそれは、意味があるとかないとかいう観念的な意味づけに先立って、ずっと前からそこではたらいていたものです。その意味でそれは、前・意味であり、脱・意味であると言うこともできるでしょう。(p.198)

私のなすべきことはただ一つ。この「はたらき」そのものをじゅうぶんに生きること。「はたらき」そのものに目覚めて、生きること。それが人間の、生きる意味であり目的であることが、直ちにわかったのです。(p.199)

『意味への意志』ヴィクトール・フランクル(春秋社)

『生きがい喪失の悩み』ヴィクトール・フランクル(講談社学術文庫)

『<生きる意味>を求めて』ヴィクトール・フランクル(春秋社)

『生きがいについて』神谷美恵子(みすず書房)

『幸福について』アルトゥール・ショーペンハウアー(光文社古典新約文庫)、『幸福について 人生論』アルトゥール・ショーペンハウアー(新潮文庫)

『意志と表象としての世界』の思想を一般の読者向けに実践論として著した幸福論・人生論。ペシミズム(厭世主義、最悪主義)によって却って、苦悩と偶然に満ちた世界の中で、人はできる限り苦痛を避け、他者からのイメージや表象=名誉や地位ではなく、第一に本質的に価値あるもの=健康、力、美、気質、徳性、知性とそれを磨くことを含む品格、人柄、個性、人間性、第二に所有物と財産を大切にし、合理的に消極的に快適に安全に生きるべきだとする。

人が直接的に関わり合うのは、みずからが抱く観念や感情や意志活動だけであって、外的な事柄は、そうした観念や感情や意志活動のきっかけをつくることで、その人に影響をおよぼすにすぎないからである。(p.14)

『人生論』レフ・トルストイ(新潮文庫、岩波文庫)

生命を哲学的にその本質を問うことから始まる生命(life)論としての人生論。動物の生命と人間の生命の理解と対比からトルストイは人間の生が時間と空間に規定されずそれらを超越する集合的歴史的なもので「世界に対する関係」だと考える。人間の理性的意識をよく用いて快楽の欺瞞と死に対する恐怖を退け、愛という人間の唯一の理性的活動によってあらゆる人が他者を愛し他者の幸福のために生きることが真の幸福である。

生命とは、理性の法則に従った動物的個我の活動である。理性とは、人間の動物的個我が幸福のために従わねばならぬ法則である。愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。(p.143)

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