「テクノの自己完結性と自律性」

テクノという音楽は、ディスコ指向のソウル・ミュージックから発展した4つ打ちのビートを特徴とするダンス・ミュージックであるハウス・ミュージックに強い影響を受け、1987年頃にデトロイトで誕生したものである。
テクノはクラブでかけられるクラブ・ミュージックであり、クラバー(クラブへ通うオーディエンス)を踊らせることに特化した音楽である。その特徴は、ほとんどがシンセサイザーやリズムマシンの機械的な音で構成され、ヴォーカルが入らず、同一のフレーズやビートの反復などである。(音楽資料1、2)また、その楽曲の制作は、コンピュータやシンセサイザーを用いて、低いコストで、その過程のほぼすべてが一人のアーティストによって行われる。(両方で評価されていると限らないが、多くのアーティストは同時にDJでもある。)
レコードやCDで商品化されるテクノの個々の楽曲は、確かに単一の作品としてディスクに収録され、一定の自己完結性を持っている。だが、曲は冒頭から盛り上がった状態で始まったり、フェードアウトで突如終わったり、あまり自律した単一の作品として曲は制作されていない。家庭のオーディオで単独で楽しむことを想定して作られてはいない、と思われる。それは、クラブにおいて「音楽のコミュニケーションへの参加者が内的な時間の流れを共有していると感じている状態」である「ノリがいい状態」[小川、1988:79]を作りだすことに、その目的が特化されているからである。
では、クラブ(ナイト・クラブ)という場では、どのようにその音楽が用いられているのだろうか?
クラブのダンスフロアでは、開店から閉店まで(22〜23時から5〜7時まで)、DJによって常に大音量で音楽が流され、クラバーは休みを取りながら一晩を踊り明かす。また、ダンスフロアは薄暗く、様々な照明技巧が凝らされることで、さらに音楽の雰囲気を盛り上げられる。一人のDJの持ち時間は2〜3時間で、交代してプレイしていく。DJは、2台以上のターンテーブル(DJ向けのレコードプレイヤー)を用い、曲を途切れることなく再生させていく。(音楽資料3)
DJはその場で音を加工し、様々な曲によって一つのプレイを構成し盛り上げていくことによって、そこで流される音楽は単に曲を再生させる以上の価値を持たせる。DJのかける音楽とクラバーは、相互に反応を起こしてさらにダンスフロアの雰囲気は盛り上がっていく。椹木野衣はそのことを、クラブ・ミュージックは、「ナイト・クラブという刻一刻情報量を変化させる特殊空間においてのみ成立し、そして夜な夜な集まってくるクラバーのパフォーマンスとの寄せては返すようなエクスタシーに満ちた一体感においてはじめて完成される。」[椹木、2001:234]と表現している。
クラブで流される曲は、ほとんどの場合、そのアーティスト名や曲名は分からない。DJの再生するレコードは、流通量が少なく、またマスメディアで楽曲を直接聴くことができないので、自分がレコードやCDを所有していて、聴き慣れている曲でない限り、曲のアーティスト名やタイトルを知ることはできない。テクノでは、むしろその時その曲が気持ちいい「ノリ」を作り出しているかが問われる。テクノでは、レコードやそのレコードのアーティストの有名・無名は問われない。アーティストの匿名性が高く、「作者」の存在は見えてこない。
その一方で、作者や曲名が認知されているアンセム・ソングというものがある。アンセムの元々の意味は賛美歌で、クラブ・ミュージックにおいては、クラブ・シーンのヒット曲で多くのDJによって長期にわたって頻繁に使用された特別な曲のことをいう。フロアの雰囲気を変えてしまう印象的なものが多い。(音楽資料4)それは、クラブ・カルチャーの中でクラバーたちの「常識」となり、CDや専門誌、口コミによって曲名やアーティスト名が知られることでさらに定着することになる。アンセムは、DJが交代した直後やイベントの終盤でかけられ、フロアの雰囲気を活性化させる。
アンセムを効果的に付くことを含めて、曲がクラブという空間でDJによって再生されることによって、DJのひとつのプレイや一晩のイベントは、「作品」としての自律性、自己完結性を持つことになる。
メジャーな音楽シーンに受け入れられないテクノは、独特の流通・販売の方法をとる。そのことによって、アーティストの自立とクラブ・シーンに適合する自由な表現活動が可能になる。
レコードは、アーティスト本人と少数のスタッフによって運営される小規模の制作・販売会社(レーベル)によって、世界中のクラブ・ミュージック専門のレコード店へ流通される。その一方で、一部の著名なアーティストは、メジャーなレコード会社と契約し、CDを一般のCDショップで発売している。
レコードに関するレヴューは、雑誌で読むことができるが、ラジオをはじめとするメディアで直接楽曲の内容を聞くことはできないので、楽曲に対する情報は限られている。DJやテクノの愛好者はレコード店で、ジャンルの分類やポップアップ、既知のレーベル名を頼りにしつつ、未知のレコードを発掘していく。レコード店でレコードを探すことは、棚に置いてある大量のレコードを世話しなく捲っていく様子からも由来しているのだろうか、「レコ堀」といわれている。そして、「レコ堀」して見つけたレコードは、レコード店に設置されているターンテーブルで試聴できる。その試聴の方法が独特で、彼らは最初からレコードを再生するのではなく、曲の途中に適当にレコード針を落ながら10秒程度試聴する「DJ聴き」と呼ばれる方法で試聴する。曲の全体を聴くのではなく、曲の「ノリがいい」かどうか素早く確認するためにそういう方法で試聴するのである。
テクノという音楽では、クラブでその音楽の「いいノリ」が体験できることが第一義とされる。曲がレコードやCDにおいて自律的であるよりも、DJがプレイする時に自律性や自己完結性が付与されることを想定して曲が制作される。その自律性や自己完結性を生み出す大きな要因のひとつは、アーティスト、DJやクラバー、クラブという空間、流通のシステムといったものの関係性である。
*参考文献
『音楽する社会』小川博司(勁草書房、1988)
『増補 シミュレーショニズム』椹木野衣(ちくま学芸文庫、2001)

11.テクノにおける「作品」と「作者」

11.1.様々な作品形態
クラブ・ミュージックの専門店で販売されているほとんどのレコードは、いわゆる「LPアルバム」ではなく、DJプレイに特化した「DJ用の12インチ・レコード」である。
DJ用の12インチのレコード盤の外観はLPアルバムとほとんど同じだが、12インチの最大の特徴となるのは、DJプレイを指向して一曲の収録時間が長いということである。DJ用12インチには、片面に一曲か二曲、両面で2〜4曲の楽曲が収録されている。LPレコードというメディアの片面の収録時間は15分であり、ひとつの楽曲の収録時間は短いもので6分ほど、長いものでは12分ほどあるということもある。LPレコードやCDよりも楽曲の収録時間を長くしたバージョンは、エクステンデッド・ミックスと言われている。エクステンデッド・ミックスでは、DJユースを意識して、ミックスがしやすいように、イントロを長くしたり楽曲の展開がない部分を長くしたり、といったエディットが施されている。12インチには、そのアーティスト自身や他のアーティストやDJによるリミックス・ヴァージョンが収録される事が多い。例えば、オリジナルが片面に一曲づつ、その楽曲のリミックス・ヴァージョンがオリジナルと同一の面に一曲づつといったケース。オリジナル一曲にリミックス・ヴァージョンが1〜3曲収録されている、というケースが多い。このリミックス・ヴァージョンは、オリジナルよりDJユースでフロア志向なものが多い。12インチ盤では、ジャケットはほとんどが白か黒、一色でレーベル部分に穴があけられている「ホワイト・ジャケット」や「ブラック・ジャケット」と言われるものである。
ハード・ミニマムといった完全に大バコ志向のサブ・ジャンルや、クリック〜ディープ・ミニマムといったマイナーなジャンルでは、レーベルがアナログ・レコードでしか音源をリリースせず、CDで音源を手に入れる事は難しい。テクノでは、アナログ・レコードのみで多くの音源がリリースされ、さらにDJユースの音源はほとんどアナログ・レコードのみでしかリリースされない。CDで、リミックス・ヴァージョンを入手できる事は少ないし、エクステンデッド・ヴァージョンを手に入れる事は難しい。
現在のところ、テクノDJが活動を行っていくためには、ターンテーブルを所有し、アナログ・レコードを買い求め続ける必要がある。DJ用CDプレーヤーで、DJプレイを行うDJの多くは、12インチの音源をDAWやオーディオファイルの編集ソフトに録音した上で、その音源をCD-R上に記憶させている。DJソフトを用いるDJも、同様に12インチの音源をコンピュータ上に録音している。
一部の著名なDJやアーティストはアナログ盤を自ら運営するレーベルでリリースする一方で、ソニー・レコードやワーナー・ブラザーズといったメジャーなレコード会社と契約しCDアルバムをリリースしている。実績のある規模の大きなインディペンデント・レーベルは、自らで、あるいはレコード会社と契約することで、CDアルバムをリリースしている。テクノにおけるCDアルバムやLPアルバムは、コンセプト・アルバムではなく、12インチでリリースした音源の編集盤・ベスト盤といった性格のものであることが多い。
TresorやSomaといったテクノ・シーンで最も実績のあるインディペンデント・レーベルは、独自に公式サイトにおいて楽曲をmp3形式で販売している。LPアルバムの全収録曲がセットで5ユーロほど、12インチ盤の収録曲がセットで1.5ユーロほどの価格である。手軽に購入はできるが、128 kbpsという低い音質であり、クラブでのDJユースに耐えられるものではない。
クラブ・ミュージック独自の作品形態に「Mixアルバム」あるいは「Mix CD」と呼ばれる形態のものがある。それは、CDの収録時間ほぼいっぱいに、レコードがつながれたDJプレイの音源が収録されているものである。ミックスCDには、クラブでのライヴ録音でさらにクラバーの歓声を収録したもの、スタジオ録音によるもの、レコードの音源をDAW上でミックスしたものがあり、最近ではAbleton Live上で楽曲を小節やパーツごとにばらし、それを再構成したものも出始めている。個々の楽曲の収録にはライセンスが必要で、DJの思う通りの楽曲が収録できないといった問題があり、ライヴ録音でも事前に録音を知っていたり、そのためにあらかじめ準備をしていることなどでいつも通りのテンションでDJがプレイできないという問題もあると考えられ、クラブでのDJプレイの臨場感や感動を再現しきれているMix CDはほとんどない。Mix CDでは通常、トラック(CDの曲番号)の区切りが間隔0秒で入れられているが、DJの「DJミックスをそのままに聴いてほしい」と意向によりトラックの区切りが入ってないもの(CD一枚に60分以上の1トラックのみが収録されている)も一部にある。
アナログLPによるミックス・アルバムというものも存在する。LPレコード2枚から4枚で構成され、レコード片面あたりの収録可能時間が15分と短く、続けてDJプレイを聴くことはできないが、DJのセンスによってセレクトされた楽曲を手軽に手に入れられることに価値がある。
また、コンピレーション・アルバムは、レーベルが一定の期間で人気の高い楽曲を集めたり、一定のコンセプトやサブ・ジャンルに合致する楽曲を集めて、アルバムにしたものである。LPアルバムもリリースされるが、CDでリリースされる事が多い。アルバムの収録曲は、エクステンデッド・ミックスではなくアルバムのバージョンであったり、エクステンデッド・ミックスを短く編集したものがあることがほとんどである。ロックやポップスにおけるコンピレーション・アルバムは、一部のトリビュート・アルバムやコンセプトが明確で意義あるモノを除いて「過去にヒットした曲の寄せ集めの安物」であり、美学的価値が低く、それを買う事は「とても恥ずかしい」と見なされる事が多い。だが、テクノにおけるコンピレーション・アルバムは、「レーベル公式」のものや明確なコンセプトを持った「作品」である場合が多く、CDではコンピレーション・アルバムでしか聴けない楽曲もあるということもあり、一般のコンピレーションCDよりも価値や位置づけがはるかに高いと考えられる。また、テクノでは、コンピレーション・アルバムが、ムーブメントやヒット曲、人気アーティストを生み出し、「伝説の名盤」となることもある。
テクノでは、ほとんどレコードでのみ音源がリリースされ、それが特殊な意味を持つことが独自のシーンや市場、DJカルチャーの形成に繋がっている。特にクラブでのプレイに特化されているジャンル、特にハードミニマムやクリックは、アナログレコードでなければ、楽曲を手に入れてDJをするのは難しい。アナログ・レコードというメディアの存在がテクノ・シーンの形成と維持の大きな要素になっている。そのことについてまとめると以下のようになる。
㈰DJの側で身体技法とそのアフォーダンスの要因としてターンテーブルとウ゛ィニル・レコードの使用を求めること。㈪クラブの設備としてテクニクスSL-1200に対する信頼度が非常に高く、世界中ほぼすべてのクラブで設置されていること。㈫レーベルがアナログ・レコードでしか音源をリリースせず、専門店もアナログしか置いていないこと。㈬クラバーが、ターンテーブルとウ゛ィニル・レコードによるパフォーマンスとしてDJingとそのアウラを求めること。これら4つの要素が互いにフォードバックしあい、その現象がさらに強化され文化として定着していることでテクノ・シーンやその市場では、現在でもほとんどアナログ・レコードのみで音源が流通している。その傾向は今後も簡単には変化しないと思われる。
11.2.テクストとしてのトラック/DJプレイ/パーティー
レコードというメディアによって形成される特異なテクノ・シーンでの特徴的な楽曲やDJプレイのあり方は、ロラン・バルトの言う「テクスト」として理解することができる。
「テクスト」とは、ロラン・バルトが「作品」に替わるものとして頻用する概念である。「作品」が作者と結びつき、一方的に読者の消費に供されるとすれば、「テクスト」とは、作者と読者の関係を双方向的な場に開くものである。テクストにおいては書かれることと読まれることが同一のレベルにあり、読者がテクストの生成に参加する。[鈴木、1996:330]
また、「テクスト」は欲望を喚起するフェティッシュであり、中立的で公正無私な鑑賞の対象ではない。その場では、作者は読者の欲望の対象であり、従来の「作品」について考えられているような作家と読者の安定した主従関係はない。作者と読者の間を還流していく欲望がテクストを生産する。テクストは、天才的な作者によって無から創造されるのではなく、他者の欲望の織物であり、それを身にまとう作者の身体である。[同上]
クラブというインタラクティブ空間で構築され現出するDJプレイは明らかな「テクスト」である。
ロラン・バルトは、作品とテクストの差異を説明する。「作品は物質の断片であって(たとえばある図書館の)書物の空間の一部を占める。「テクスト」はといえば、方法論的な場である。」[バルト、1979:93]作品は物質として存在し手にすることができるものだが、テクストはある規則にしたがった語りや行為、活動の中にある。また、「作品」は消費の対象だが、「テクスト」は「作品」を遊戯、労働、生産、実践として回収する。[同:101]作品に対する読者の投影を強めるのではなく、エクリチュールと読書を同じ記号表意的実践の中で結びつけることによって、両者の距離をなくし、その歴史的に形成された乖離を克服すべきである。[同:101]作品は消費の快楽にとどまるが、テクストの快楽とは、悦楽=距離のない快楽であり、それによって言語関係の透明さが実現されることで、テクストは社会的ユートピアとなる可能性がある。テクストはその差異においてしか、「テクスト」ではありえず、その読者は一回性の行為である。[同:98]そして、「テクストはシニフィエを無限後退させ、延期させるものとなる。テクストの場はシニフィアンの場であり、意味以前で意味以前ではなく、意味以後といえよう。」[渡辺、2007:114]
DJプレイは、テクストとしてDJとクラバーのインタラクティヴでリアル・タイムな関係のなかで作られる。
ハード・ミニマムのDJクリス・リービンは、DJプレイでの「選曲は前もって考えていた?」というインタヴューに対して「いや。クラウドの反応やクラブの環境を読みとって、自分がダンスフロアにいたら何が聴きたいかをイメージしながら組み立てていった。同時にいい意味でのクラウドを裏切って脅かすことも忘れないようにしたね。」[GROOVE SUMMER 2006:78]と答えている。
シン・ニシムラは、DJプレイでの選曲の方法と方針についてこのように説明している。「取りあえずDJの一時間くらい前からフロアの様子を見て、そこから流れを考えていきます。」「例えば、DJが始まってから自分の好みの曲とかをかけてみて、そのテイストが今晩はイケるのかどうか、お客さんに投げかけをしてみるんです。その反応によって、ピークとなる曲を先に決めてしまうんですよ。で、そのピークに向かって徐々に盛り上げていくような選曲をその場で組んでいくのが僕のやり方です。」[GROOVE SUMMER 2006:127]
また、ケン・イシイは「DJをやっていて良かったと思う瞬間は?」という質問に対して以下のように答える。「シンプルなんですけど、お客さんがニコニコしていいる顔を見られるのが一番というか。僕はDJをショーとしてとらえていますね。それプラスDJが終わってから“良かったね”“かっこいい曲かかっていたね”と言ってもらえるとやっぱりうれしいです。その気持ち……いわゆるDJ道みたいなものにたどり着くまでは結構時間がかかったんですよ。一応プロフェッショナルなDJはデビュー当時からやっていますけど、そのときはあんまりお客さんを気にしないでDJしていた感じだった。でも段々そういう喜びを見つけられるようになったというか。自分のやりたいこととお客さんの喜びが一致させられるようになったんでしょうね。」[GROOVE WINTER 2007:59]
本物のDJプレイはクラブという特殊空間におけるDJとクラバーとの関係の中にだけ存在する。本物のDJプレイというテクストは、音盤に記録される音楽/サウンドとして存在するわけではない。それは、クラブという空間でのDJのパロールの実践とクラバーのダンスという能動的な聴取のなかに存在する。DJは、その実践が受動的・内面的なミメーシスに還元されないように、テクストをもてあそぶ。DJとクラバーとの間には複雑な心理的駆け引きがあるが、その裂開を弁証法的に超越することで、エクリチュールと聴取の共在的な場が現出する。それはポピュラー音楽における演奏と聴取の乖離に対する中立的な声なきオルタナティウ゛としてある。そのひとつのDJプレイは確固とした「個性」として存在するというよりも、差異としての繰り返しの中に存在する。そして、DJプレイによって生じた音楽というシニフィエは、そのシニフィアンであるサウンドの快楽の場を現象させながらイリンクスと至高性の背後で儚く消え去ってしまう。
その複数のDJプレイで構成される一夜のパーティーは、ある名称がつけられ、ゲストDJやレジデントDJの名前が前面に出るが、それは固定的な「作品」とは言えない。だが一定のなんらかの形態や単位を持っている。パーティーは一定のコンセプトやコノテーションを持っているし、クラバーにはそれが一つの単位として解釈され記憶される。パーティーは、DJ、VJ、ライティング・エンジニア、パーティーやクラブのスタッフ、それに多くのクラバーたちの意志と活動の恊働によってつくられる、クラブ・カルチャーとラングに対するパロールである。パーティーもひとつのテクストだと考えられる。
DJプレイやパーティーというテクストはクラブという「状況」のなかでのみ実践され生産され遊戯されるものである。Mix CDの不自然さや物足りなさはここに起因する。
また、パーティーで使用されDJプレイを構成するテクノ・トラックは、はじめから自らがあるいは他のDJがDJプレイの中で使用するものとして意図して作られる。
石野卓球は、DJ活動の楽曲制作に対するフィード・バックについてこのように説明する。「やっぱり、いろんな環境でいろんなお客さんの前でプレイできたことが一番の収穫でしたね。でかいフェスティバルから小バコまで、すごくハードなものが受けるところから、もっとグルービーなものが受けるところまでいろいろプレイしていて、その場に応じて“こういうスタイルのセットのときには、こういう曲をかけたい”とか幾つかでてきたんです。で、そうすると、例えばハード・ミニマムだけではなくて、エレクトロとか、ちょっとディスコっぽいものとか、“あれも作ってみたい、これも作ってみたい”と幅が出てくるんですよね。似たような感じのお客さんで、似たようなムードのクラブでずっとやっていたとしたら、あまり幅が広がらないし、作りたいものが変わらないと思いますよ。」[サウンド&レコーディング・マガジン1999年2月号:43]
つまり、テクノの楽曲は、実際のDJでのプレイ使用とフロアでのクラバーの反応を先読みの両立を前提にして制作されることが多いということである。それはDJやアーティストが、自分がクラバーやリスナーとなって楽曲を聴いたり踊るということを楽しむということを考えながら楽曲を制作しているということである。DJやトラック・メーカーは、絶対的な「作者」ではなく、最初のクラバーやリスナーでもある。その二つの意図の恊働によって楽曲は制作される。また、先に記述したようにテクノの楽曲は、DJユースとダンスフロアに特化した形式をもち、固定的な「音楽作品」であるよりもDJプレイに用いるためのサウンドのパーツとして作られる。それは他のDJに自由に解釈され、DJプレイの中で自在に変化が加えられる。そういったことも想定されて楽曲は制作されている。テクノ・トラックはあらかじめテクストとなることを前提に生産される。
また、そういったあり方のパーティーやトラックという「テクスト」に対してDJやアーティストは、「作者」だと言えるのだろうか?
ロラン・バルトは、(古典的・美学的な価値観による)「作品」について、それは系譜の過程にとらわれるものであり、「歴史」の限定作用や作品相互の因果関係、「作品の父」としての作者の占有が要請されるものである、としている。それに対してテクストは「父」の記名なしに読むことができる。テクストは、その作者の元から一元的に拡張していくのではなく、あるネットワークよる結合関係や、ある体系性の効果のなかで拡大していく。「作者」は、絶対的な主人としてではなく、招かれた客として「テクスト」に参加することになる。[バルト、1979:99-100]
テクノでは、アーティストは絶対的な「作者」ではない。レコードでリリースされた楽曲は自らの手を離れて、知らないDJや知らないパーティーとそこに集まるクラバーの中で、知らないうちに意味や解釈が拡張されていく。一度手を離れてしまったアンセムは、クラブ・カルチャーのネットワークや体系性の中で、もはやそれをつくった“作者”の関与ができないほどに大きな意味や価値をもつこともある。
DJプレイでは、DJingというパフォーマンスをするDJは、パーティーの行われている時空間ではある主役として存在している。だが、DJプレイやパーティーというテクストは、クラバーとのインタラクティヴな関係、パーティーのあらゆる要素のなかで生産される。DJはDJプレイというテクストの一人の“作者”ではある。だが、DJプレイやパーティーはDJによってのみ作られるのではない、クラブという空間では、クラバーたちの“ダンス”による参加もそれらのテクストの生産におけるパロールの実践の大きな要素である。クラバーたちはDJプレイやパーティーの作者とは言えないが、それに参加し、それをつくっている。

4.インタラクティヴ空間としてのクラブ

4.1.ディスコでのダンスと音楽
では、そういった歴史の中で形成されてきたクラブという空間は従来のディスコという空間と一体どういった違いがあるのだろうか?
湯山玲子は、ディスコとクラブの大きなギャップのひとつを、性にまつわる側面だとしている。ディスコ世代の人たちは、クラブをナンパ目的の風俗的な場所だと判断してしまうが、実際にはクラブでは性の匂いが希薄である。[湯山、2005:16]
そういった差異の現れのひとつがダンスのあり方や意味の違いである。かつてのディスコでのダンスは現在のクラブでのダンスとはだいぶ様相が異なっていた。当時のディスコでは曲ごとのダンス・スタイルや各店ごとのオリジナルのダンス・ステップというものがあり、集団でラインになって踊ったり、お互いに向かい合って異性に見せつけるように踊ったたりしていたという。そのステップをいち早く覚えることは、フロアでの自慢やステータスでもあった。[湯山、2005:222・高橋、2007:24-25]
また、ディスコにはドレス・コードがあった。ディスコに相応しい服装をしなければ入場を断られることもあるし、それ以前にファッションに自信がなければ、その場に入り込むことができなかった。[湯山、2005:226-227]
つまり、ディスコはダンスすることを見せる場であった。ディスコは音楽で踊ることを最大の目的とするというよりも、若者はナンパや恋愛を目的として集まり、脱日常の大人の夜の社交場という要素が強かった。
また、当時のディスコ・シーンもひとつではなく、本格的な「ブラック系」のディスコ/ヒットチャート中心のディスコ、サーファー系ディスコ/ニュー・ウェーウ゛系ディスコというカテゴリーの対立があった。[湯山、2005:223-244]概して、現在の日本のテクノやヒップ・ホップのクラブ・カルチャーは、ニュー・ウェーウ゛系のディスコの中から産まれてきて、トランスやパラパラのクラブはサーファー系ディスコの系譜を引き継いでいると言える。
ディスコではレコードをミックスするのではなく、フェード・イン/フェード・アウトで一曲一曲の曲間を切り、その間に曲の紹介やトークを入れるというスタイルで楽曲が流されていた。[高橋、2007:31]そして、当時のディスコにはスウィートなバラードが流れるチークタイムという時間があった。チークタイムになると照明が暗くなり、カップルは誰はばかることなく身体を寄せ合ってチーク・ダンスを踊り、一人で来ている男子はチーク・タイムを口実にナンパをすることができたという。[高橋、2007:25、印南、2004:294]ディスコでの音楽は、もちろんそれ自体にも価値はあるのだが、それは、どちらかというとステップを踏んだ定型のあるダンスを踊ることや性的な感情をあおることのために用いられるという傾向があった。また、曲間は切断され、ダンス・タイムとチーク・タイムで雰囲気は一変し、当時のディスコの一晩のイウ゛ェントには全体としてのストーリー性はなかったと考えられる。
4.2.「大きな物語」として構築されるパーティー
クラブにおける音楽の意味と扱われ方は、ディスコのそれとは大きく異なる。
クラブのダンスフロアでは、開店から閉店までDJによってレコードがロング・ミックスされることによって、ノン・ストップで、常に一定のテンポで、大音量で音楽が流されていて、クラバーは、その中で一晩を踊り明かす。(図4)一人のDJの持ち時間は1〜3時間で、3〜5人で交代してプレイしていく。稀にロング・プレイ・セットといって一人のDJのみが6〜8時間といった長時間に渡ってプレイする形式のパーティーが行われことがある。
一人のDJが一晩を通してプレイするのが元来のディスコのDJスタイルであり、一人のDJによって一晩のパーティーのストーリーが紡がれそれを体験することがかつての本来のハウス・ミュージックのDJプレイとクラビング(クラブへ行って楽しむこと)の醍醐味だった。テクノの流行により、現在では数人のDJでプレイするスタイルがあらゆるジャンルのパーティーで標準となっている。
パーティーは中盤のゲストDJやライヴ・アクトが登場する時にテンションがピークに達するように構築され、パーティー全体としては基本的に「起承転結」、あるいは「起転結」といった構造をもつ。その構成の仕方やテンションのコントロールの仕方を具体的な例で説明してみたい。まず一人目のDJはテック・ハウス、ディープ・ミニマム、クリックといったBPM110〜120程度と遅くテンションの遅い音楽で、1時間30分〜2時間程度プレイし、フロアの雰囲気をつくっていく。まだこの時間には、照明も一部しか使われておらず、効果は抑えられている。これが「起」にあたる。二人目以降のメインのゲストの前にプレイするDJは、一人のDJが造った雰囲気やテンションを受け継ぎ、徐々に音楽のテンションを盛り上げ、音量を上げ、BPMを早くして、クラバーやフロアのテンションをピーク寸前までもっていく。これが「承」にあたる。そして、メインのゲストDJやライヴ・アクトが、満を持して登場する。BPM140〜147程度のハードな音楽が用いられ、サウンドの音量は最大になり、それに同調してクラバーたちのテンションもピークに達し、「至高性」の空間が現出する。その時には、照明やスモークなどのクラブの施設による演出も最大限にその性能を引き出され、VJによるスクリーン上の映像も最もダイナミックなものになる。これが「転」にあたる。この時に大掛かりな演出をしたのにフロアにクラバ−が集まってないと逆に気まずい雰囲気になる。DJ教則本などでは、一つ一つのDJプレイは起承転結の構造を持っている、あるいは持つべきだとされている。[沖野、2005:34-36]だが、テクノのDJプレイでは、明確な起承転結の構造は存在しない。しかし、たまに、メインのDJが起承転結という構造をもったプレイをすることもある。その後に出演する単数、あるいは複数のDJは、多少、曲調やサブ・ジャンルを変え雰囲気とテンションをある程度、維持しながらパーティーを終局に持っていく。パーティーの終盤では「アンセム・ソング」やヴォーカルの入ったトラック、テクノ・ポップのトラックが用いられることがあり、再びメインDJが登場する等して、もう一度ピークが訪れパーティーが締めくくられることもある。これが「結」にあたる。アンコールが行われることもよくあり、3〜5曲、20分程度、アンセム中心のプレイが行われる。
DJは、インタラクティヴに、リアル・タイムに、フロアの状況に合わせて様々なトラックを用いてプレイを構成しさらにそのサウンドを加工することで、それらのトラックは単にそれらを再生させる以上の価値が創出される。その価値は、個々のトラック、個々の時空間が結びついて、DJプレイやパーティーといったある“かたち”の中で具現化される。
記号論における記号やテクストの説明を援用して、DJプレイの価値の現われかたについて説明したい。
記号学では、記号やテクストは、その構成要素や記号の差異にもとづくシステムによって成立する、としている。記号やテクストのシステムとしての関係論的な集合においては、差異こそが基本になる。分節された構成要素を結びつけることによって記号やテクストは生み出される。言語の場合、音素という分節化のシステムは、極めて限られた数からなる形式的要素の組み合わせによって、極めて多くの単語をつくりだすことができる。[石田、2003:40-44]
また、記号のシステムの重要な特性は、そのあり方が「反復」することにある。差異による分節のシステムは、記号やテクストの実現の場において反復するネットワークを作っている。記号の価値の側面のひとつは、その要素がそのシステムにおけるすべての記号と取り結んでいる交換可能な関係によって決定する。[同:45-46]
記号やテクストは、そういった交換可能な関係の反復のシステムを通して呼び起こされる。そのシステムは、パラディグム(範列)とサンタグム(統辞)という軸によって規定される。パラディグムとは等価性によって特徴づけられる記号同士の「連合関係」であり、サンタグムとは記号同士が線条的な近接性によって特徴づけられる「結合関係」である。記号は無秩序に集合しているのではなく、一つの記号は他のパラディグマティックな関係をつくって存在している。そして、記号が表現となるのは、記号が場所も空間も持たない潜在的なシステムとして存在している状態から、シンタグマティックな結合関係を形成し時間および空間の中に存在する状態へと移行することによって実現する。[石田、2003:46-47・池上、1984:145-147]
個々のレコードとそこに収録されている楽曲は、本来はパラディグマティックな関係、つまり統辞クラスを持たない個別の記号だといえる。まず、DJは楽曲のテンションやサブ・ジャンル、後述するDJツールとしてのトラックやアンセムの差異、といった楽曲の機能を分類し整理し、また記憶の中にとどめておく。そうやって統辞クラスを分類しや個々の楽曲の間に差異をあらかじめ作っておく。
DJプレイのリニアな時間の進行も本来はシンタグマティックな「構造」をもたない。その一方でDJプレイの時間やパーティーの時間は決まっている。さらにDJは自分のプレイの役割や位置、クラバーやオーガナイザーの要求を考慮しながら、どこでどういった機能の楽曲を用いるかということを判断し、シンタグマティックな結合関係、つまり、記号の配列としてのDJプレイの流れやストーリーを構想していく。DJがクラブに持ち込むレコードの枚数は限られているが、それらの個々の記号をミックスすることによって組み合わせ、時間におけるシンタグマティックな結合関係としてのDJプレイを現出させる。
その個々の記号としての楽曲は、通常は一晩のパーティーでは一度しか用いられないが、あらゆるDJプレイの中の記号として交換可能である。楽曲は反復が可能であり、あらゆるDJによって何度でも永久に用いられる可能性がある。だが、その楽曲の価値は色褪せてはいかない。シタグマティックな組み合わせの関係の中で違った価値が常に生み出されるからである。DJは、ミックスのテクニックと選曲のセンスによって、様々な楽曲を基本的には明らかな差異や違和感を感じさせないようにミックスしていく。DJによって楽曲はミックスされることで様々の記号間の差異が平準化していく。DJプレイの時間的進行の中での楽曲の差異とロング・ミックスによる楽曲群の平準化・一体化により、そこにイディウム化が起こり、DJプレイが一つのメタ記号となる。
ここまでは静態的にDJプレイの価値について分析してきたが、さらに、リアル・タイムな現象としてのDJプレイについて考察したい。
先に述べたようにテクストの具体的な意味が実現するのは、パラディグム軸とサンタグム軸の法則にのっとって、記号が結びつけられからである。だが、その記号の結合によって生み出されるテクストの意味とは、個々の記号の意味作用の単なる総和ではなく、現働化した一連の記号の相関関係と不可分な意味として、つまり、固有の意味の実現の出来事として生み出される。テクストには記号外の事実への参照作用が起こり、テクストという記号群の現実態は世界との関係づけの中におかれる。また、その記号の現働化による「いま・ここ・私」の布置により、主体は生みだされる。[石田、2003:48-49]
DJプレイは、DJとクラバーとのインタラクティブな関係の中で成立してくる。デトロイト・テクノのセカンド・ジェネレーションを代表するアーティスト/DJであるカール・クレイグは、選曲のポリシーについてこう述べている。「フロアの反応を体で感じることだね。いつも、その場の空気に合わせて即興演奏みたいに曲を選んでプレイしするんだ。」「そのときに感じるままに選曲し、つないでいく。だから、つねぎの法則みたいなものは無いよ。ある場所で盛り上がった曲が他の場所で盛り上がるとは限らないからね。ただ、人を笑わせ、泣かせることができる選曲を心掛けていることは変わらない。」[『GROOVE』2006年 夏号:79]つまり、DJは、あらかじめ選曲のプログラムを決めているのではなく、フロアの雰囲気やクラバーの反応を見ながら、ディスクを選択し選曲を行っていく。そういったDJプレイのインタラクティブでリアル・タイムな価値の成立のあり方を椹木野衣はこのように表現する。「ハウス・ミュージックは、ナイトクラブという刻一刻情報量を変化させる特殊空間においてのみ成立し、そしてそこに夜な夜な集まってくるクラバーのパフォーマンスとの寄せては返すようなエクスタシーに満ちた一体感において始めた完成する。」[椹木、2001:234]
DJプレイは楽曲の組み合わせがその都度のオリジナルであるだけではなく、その楽曲は、ピッチの変更、イコライザーのかけ具合、DJエフェクターによるパフォーマンスによって自在に変形させられる。さらに、そのハコの「サウンド」やクラバーとの関係によって、トラック群によって形成されたDJプレイのコノテーションやパーティーのコンテクストはリアルタイムにインタラクティブに変化し情報量は増大する。そういった要素を含めて、その瞬間の「いま・ここ・私」によるパフォーマンスは一度きりしか起こらない。
ヴァルター・ベンヤミンは、例えば絵画作品において絵の具の厚みや筆致から人々が感覚する歴史性を含んだ真正性や一回性の存在感を「アウラ」と呼んでいる。それに対して、写真や映画といった複製された芸術作品には、「いま、ここに在る」という存在感が欠けているとしている。[多木、2000:38-43・139-142]
現在、そういった従来のアウラに対する考え方を覆そうとしているのが、コンピュータのインタラクティヴィティやランダムネスを活用した「メディア・アート」や映像機器などを用いた「インスタレーション」という形態の美術作品である。それらの作品形態のもつ価値はこのように評されている。「デジタル・イメージはデジタル・データからそのつど再生される画像であり、モノとしての画像ではなく、パフォーマンスとしての画像であり、耐久性と個別性を備えた人工物として実現される画像ではなく、支持体のない、非物理的な現象としての画像なのだ。」[伊藤、1999:37]「現代のインタラクティヴ・アートでは、表現されたものに対する感情移入より行為によって作品が物理的に反応し、作品自体が視覚的に変化することにより、観客が、自身の五感に訴えてくる生理的刺激をエンジョイするのである。これは名画から受ける感動とは違った、ゲーム感覚の参加型の楽しみ方といった方が適切かもしれない。」[三井、2002:109]メディア・アートやインスタレーションは、デジタルな情報によって構成され、ベンヤミン的な意味では「アウラなきもの」でしかない。だが、コンピュータのインタラクティヴィティによる記号の結合関係の変化、ある環境の中でインスタレーション=設置されることによる一回性、観客とのリアル・タイムでインタラクティヴな反応、などによって、そこには“新たなアウラ”というべきものが存在している。そういった記号の組み合わせのダイナミズムによって生み出される価値や存在感を「デジタル・アウラ」と定義したい。
DJプレイは複製技術によってつくられる本来はアウラなきレコードと電子音で構成されるアウラなき楽曲によって構築される。本来は楽曲もその複製品であるレコードも最もアウラなきもののはずである。だが、DJingというパロールの実践によってDJは、DJプレイというテクストの(一定の)「作者」やパフォーマーとなり、テクノというランガージュのうちにデジタル・アウラが現出する。
そして、ほとんどの個々の楽曲はポスト・モダンな皮相な断片でしかないが、DJによってそれらが「その時」を乗り越えていくように弁証法的にひとつのプレイ、ひとつのパーティーとして構築されることで、苦難の道を一歩一歩あゆみ肯定・否定・昇華を繰り返しながら、素朴な「感覚的確信」から「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」である「絶対知」[ヘーゲル、1998]に至るような、一元的に壮大な物語が展開していく。クラブという価値や意味が剥奪されたポスト・モダン(でさえない)空間に極めてヘーゲル的な「大きな物語」が現象する。
4.3.匿名の楽曲とアンセム
DJプレイを構成する個々の楽曲はDJプレイを構築するためのパーツであるという意識からか「ソング」ではなく「トラック」と呼ばれている。クラブという特殊空間で用いられる、ほとんどミニマムな電子音響の反復で構成されているテクノのトラックは、ダンス・フロアではその曲名やアーティスト名はほとんどがわからない。そこでトラックのタイトルや「作者」がわかったとしてもほとんど意味がない。個々の楽曲がその時・その場所で・クラバーたちにとって気持ちいいグルーヴとフィーリングを生み出しているかが最も重要なのであり、トラックや制作したアーティストのネーム・バリューは問われない。個々のトラックは匿名性が高く、その「作者」の存在が見えてこない。
その一方で、「アンセム・ソング」と呼ばれるものがある。「アンセム」とは、元々「賛美歌」という意味で、そこから拡大解釈され、DJによってヘウ゛ィー・プレイされクラバーや他のDJに認知されるようになったクラブ・シーンでのヒット曲のことをいう。アンセムは、①賛美歌のように清らかな高揚感やチル・アウトをもたらすもの、②特徴的なパッセージやリズム、ヴォイスを備えているか、ヴォーカルが入っていてフロアをさらに盛り上げるもの、③それらふたつの要素があるものに分類できる。
アンセムは、DJが交代した直後やパーティーの熱狂が佳境に入ったとき、パーティーの終盤など、フロアの雰囲気を活性化させたいときや雰囲気をクールダウンさせて一変させたい時に用いられる。それらは、クラブ・シーンの中でDJやクラバーたちの「常識」となり、CDや専門誌、口コミによって曲名やアーティスト名が知られ、さらにDJがまたプレイをするといったことのフィードバックが繰り返されることでクラブ・シーンに定着することになる。アンセムに対してはクラバーたちの期待が生まれる。そういった期待を汲みながら、トラックとアンセムをどのように組み合わせて、どういうストーリーをつくってDJプレイを構築するか、ということがDJの最も重要なセンスの見せ所となる。アンセムは、基本的にメインのDJが登場した直後やパーティーの終盤というクライマックスで用いられ、クライマックスをつくり、フロアの雰囲気を(再)活性化させる。
また、自作曲を多数発表していて、そのストックが豊富にあるベテランのDJは、ほとんど自作曲のみでDJプレイを構成することもある。そういうケースでは、トラックの匿名性はある程度抑えられる。さらに、著名なDJが自作曲のアンセムを用いることを期待して、その瞬間を体験するためにクラバーがパーティーに集まるということもある。ジョッシュ・ウィンクは、「ピーク時にかける定番曲は?」という質問に対してこう答える。「オーディエンスの多くは僕自身の曲を期待しているから、おのずと「How’s your vening so far?」「Higher state of consciousness」といった自分の曲になるね。この2曲はいつかけても効果があるビックトラックだ。」[GROOVE SPRING 2007:80]
テクノのパーティーの時間的構成や楽曲の差異は、無秩序に存在しているのではなく、一定の秩序やコードといったものが存在する。そのコードの存在があるからこそ、インタラクティヴなパロールの実践が効果を発揮する。