バーナードの恊働システム論 その意義と限界

従来の組織論は、経済人仮説に立ち、経済的な動機づけによる人々の管理を理論化するのもであった。だが、チェスター・バーナードは、全人仮説に立ち、自由意志を発揮する事で存在価値を追求する人間を捉え、「近代的組織理論」を打ち立てた。  人は組織の中で、物的要因・生物的要因・社会的要因などの制約を受けるが、それらを統合し、活性の領域において個々の主体性の創造を行い、自らの行為を起こし外界へ働きかける存在である。  また、彼によるといわゆる「そしき」は明確な目標のための特殊なシステマティックな関係にある物的・人的・社会的要素の複合体=「恊働システム」として捉えられる。恊働システムにおいてその複合体を統合する活性の領域は「公式組織」と呼ばるものであり、それは有意味な行為を生み出す力のシステムである。人は恊働システムの一つのサブシステムである人的要素であり、また人々が恊働システムの要因として機能する事は、人的要素のサブシステムである社会的要素にフィードバックをもたらす。  その恊働システムを存続させるのが、それの目標を効果的に達成する「有効性」と、人々の様々な欲求に対する満足を統合して与える「能率」である。  一方、恊働システムを駆動させる原理としてリーダーシップがある。リーダーシップは、「信念」をつくり出す事によって、個人的な意思決定を鼓舞する能力である。信念は「道徳の創造」につながり、個人の人格内面的な力、利益計算とは切り離された、正しい判断をもたらす。リーダーシップは、共通目的に意味を与える「意味創造」と、個人のアイデンティティの支えとなる個人道徳と組織道徳を両立させ「全個統合」を行う。  恊働システムの主体化と個人システムの主体化は、並立する複合主体システムとして捉える事ができる。社会的の要因の経路により組織の生み出した意味が個人の主体化の過程に取り込まれ、また、組織の提示した意味に個人が主体的に応答して行くという現象が起きる。リーダーシップの機能は、個人のアイデンティティを支える意味と恊働システムのアイデンティティを支える意味を両立させる。それは予定調和ではなく、ダイナミックなものである。  バーナードは、アイデンティティを支えるような強い道徳による全個統合を提唱した。だが、いかに知識を提供する人のコミットメントを繋ぎ止めておくか?という議論が欠けている。より自由な意味創造を行える柔軟なネットワーク型の組織のあり方が求められる。

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ハーモニカ横丁の光と影

 ハーモニカ横丁とは、JR吉祥寺駅・北口に広がる戦後の闇市の名残が残る商業地区一帯のことである。狭い範囲に90店の飲食店や居酒屋、雑貨店、衣料品店、生鮮食品店が密集していて、戦後から続いている鮮魚店や和菓子屋、40〜30年の歴史のあるバーや中華料理が点在し、空間全体にも猥雑で濃厚な雰囲気が漂っている。その一方で、そこに最近10年の間につくられた若者、特に若い女性向けのモダンでカワイイ雰囲気の個性の強いカフェや雑貨店、居酒屋などがカオス状態で混在するところがハーモニカ横丁の特徴であり、魅力であるとされる。  そこが“ハーモニカ横丁”と呼ばれるようになったのは、約二十年前で、狭い間口の商店が建ち並ぶ様子を見たマスコミが名付けた。そして、約十年後に、横丁の組合で正式にその呼称が採用された。[東京生活2004 no.1、:17] “ハーモニカ横丁”というものは、それほど長い歴史を持っているわけではない。  ハーモニカ横丁は、10年ほど前までは、時代遅れの店が集まり経営者や従業員も年をとり閉店をする店も多く、「シャッター通り」と言われ、路地を通るのは駅への抜け道として利用する人ばかりで、再開発計画も持ち上がり、取り壊され姿を消す寸前だった。[hanako 2004年3月24日号:12、散歩の達人2003 年2月号:36-37]  その状況を一変させたのは、現在、ハーモニカ横丁の代名詞になっているカフェ、ハモニカキッチンの登場だった。(ハーモニカ横丁は、「ハモニカ横丁」とも呼ばれるが正式名称は“ハーモニカ横丁”である。ハモニカキッチンについては、「ハモニカ」という記述で正しい。)  ハモニカキッチンを経営しているのは、「VIC」(ビデオ・インフォメーション・センター)というビデオテープなどのメディアやオーディオ機器を販売するショップを吉祥寺・下北沢に展開し、「外国家電」という輸入家電のショップも手がける手塚一郎である。[Webサイト フードスタジアム]  手塚は情報機器の市場の成熟や価格の過当競争に限界を感じ始めていた頃、何かおもしろいものを求めていて「カフェ」に行き着く。まだ、「カフェ」という概念が曖昧であった頃からそれを構想し、20代の女性が「ゆっくり」できて「甘いもの」や軽い「カフェ飯」がある「ママゴトの様な空間」を求める気分をつかみ取る。そして、1998年、ハーモニカ横丁にあったVICの2号店に2階に週末限定でオープンさせたのがハモニカキッチンである。手塚によると「青山や麻布では当たり前のことでも、この横丁でやれば面白いと思われるんです。」ということが狙いであるという。[同]  このハモニカキッチンは、見事に当たり、それが起爆剤となり、若い人が経営する個性的な飲食店や雑貨店がハーモニカ横丁に集まり、それらを目的に若者が集まるようになり、再び活気が生まれ、メディアでも取り上げられ、吉祥寺の街のひとつの文化や話題の中心となっている。  現在では、特に休日には若者とくに女性で横丁はいっぱいになり、ハモニカキッチンなどは満席になる。また、居酒屋では若者と壮年の男性と外国人が一緒に居酒屋や焼き鳥屋でお酒を飲むという光景が頻繁に見られるようになっている。  また、手塚一郎によるとハモニカキッチンなどの分かりやすい飲食店が、空間的にも価値観としても分かりにくいハーモニカ横丁がごく日常的に同居していることによって複雑さが増している。その「混沌とした空間」が他にない独特の魅力として、人々を引きつけているのは間違いないという。[同]  一方で、60年代から続く老舗のバーは、客が一人も来ない週もあり、月の売り上げでは、3万5千の地代は払えないという。パチンコ店が景品交換所に使いたいという申し出があったが、思い出が詰まった大切な場所は取り壊せないので断ったという。[朝日新聞東京総局、2005:15-16]  また、深夜は治安が悪く、ガラスが割られるのは日常茶飯事であり、警備会社から派遣される警備員は、少年たちに取り囲まれ殴られたこともある、という。放火事件やタバコの吸い殻による火事の危険もあり、「治安は年々悪くなってきている。」[同:17-18]  年配の商店主からは、「それじゃいけないんだ。建物も設備も限界。火事も怖い。生き残るためにも再開発は急務。」といった声が聞かれ、客からの「闇市の雰囲気を残して」という意見を排して、再開発を検討することを検討する動きもあるという。[同:14]  エドワード・レルフは、『場所の現象学』において、自らの直接経験による意味づけによって分節した空間を、「場所」として、大量生産と商業主義が深化した現代における多様な「場所」のあり方の消失、つまり「没場所性」について論じている。  お仕着せではない本来の場所であるための一つの指標が「本物の場所のセンス」である。それは、「個人および共同社会の一員として内側にいて自分自身の場所に所属すること」、そして「このことを特に考えることなしに知っていること」[レルフ、1999:165]とされる。  また、その「本物の場所のセンス」を理解するための指標の一つが、「無意識的な場所のセンス」である。それは、無意識的な場所づくりから生まれる。「そこからは、自然的、社会的、美的、精神的、およびその他の文化的要求の全体を反映し、それらの全要素が互いによく適合しあってるような場所が生まれやすい。」[同:168-169]  闇市とは、人々が非常に苦しい生活の中で、生活の必要に応じて無意識的につくられた本物の場所である。現代の計画的な都市計画や建築によってつくられた街とは異なる、濃厚なアウラが生じ、残るのは当然である。  しかし、現代社会においては、本質的に無意識的な本物の場所などほぼありえない。「大衆の価値観とマスコミュニケーションが支配する文化においては、大衆的流行や専門家によるデザインによって影響されない建物や場所は、わずかしかありえない。」[同:172]とレルフはしている。  元々、吉祥寺という街全体が、文化的なものやサブカルチャーによって無意識的につくられた場所だと考えられる部分もあるが、やはり個々の通りや建物は意識的に計画されたものだと言わざるをえない。だからこそハーモニカ横丁が貴重なのである。  ハモニカキッチンをはじめとする新しい世代による「意識的な場所づくり」[同:175]は、成功を収めている。吉祥寺にしかないオリジナルな体験ができ、新たな歴史や経験の地層が刻まれていくという意味では「場所」だといえる。  だが、吉祥寺という規模の大きな街に残るハーモニカ横丁は、結局、古くからあるお店は経営が厳しい、治安が悪く火災の心配が絶えない、横丁の方針をめぐって内部で対立がある、といった矛盾を抱えている。年配の人ほど再開発に対して賛成であるという「ねじれ」も存在する。  レルフは、欧米における郷愁を誘う昔ながらの街や景観の扱われ方について、「熱狂的に保護されていたり復元されてさえいて、かえってその偽物性を保証するものになっている。」[同:172]と述べている。この意見に従うと、ハーモニカ横丁の風情も、ハモニカキッチンのおしゃれな雰囲気も非常にキッチュなものに見えてくる。  ハーモニカ横丁は危ういバランスの上に成り立っている。その危ういバランスや歪み、キッチュさがハーモニカ横丁のダイナミズムやおもしろさなのかもしれないが。  ハーモニカ横丁は、決して「本物の場所」ではない。「闇市の懐かしさ」に「新しい若者文化」がプラスされたそれは、情報誌の情報をたよりにするだけでは、ポジティヴな面ばかりで批判する要素がほぼ見当たらない。だが、ハーモニカ横丁は、ラーメンテーマパークのように街並を人工的に再現するのではない、「本物を用いたテーマパーク」であるということが言えるのではないか。 □参考文献 『散歩の達人2003 年2月号』(交通新聞社、2003) 『中央線の詩』朝日新聞東京総局(出窓社、2005) 『東京生活2004 no.1』(えい出版社、2004) 『hanako 2004年3月24日号』(マガジンハウス、2004) 『場所の現象学』エドワード・レルフ(ちくま学芸文庫、1999) Webサイト「フードスタジアム」

バリ島のガムラン

 バリ島のガムランは、宗教儀式と音楽との深い結びつきと稲作農耕文化の共同体社会の伝統の中から生まれてきた。  ガムランをはじめとする東南アジアの旋律打楽器のルーツは、ドンソン文化という青銅器文化にあるという。ドンソン文化とは、紀元前10世紀半ばから紀元1世紀にかけてインドネシアに伝播した稲作農耕文化である。この文化は、「ドンソン銅鼓」という青銅器の鼓を、農耕儀礼に関わる宗教上の「法器」として用いたという。  ガムランの楽器の原型は、8〜9世紀の遺跡のレリーフの中に見られる。7世紀から10世紀までには、インドからヒンドゥー教文化が伝えられ、インドネシアの芸能・音楽に大きな影響を与える。具体的には、「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」の二大叙事詩である。ヒンドゥー教文化が、13世紀にインドネシアを支配したマジャパヒト王国の全盛期に黄金時代を迎え、この地に特有の旋律打楽器合奏として展開される。この時代のガムランは、冠婚葬祭や通過儀礼に深い関係があり、対応する儀礼がかなり特定されていた。  中世のガムランは、15、16世紀に拠点としていたジャワから逃れてきたマジャパヒト王国の末裔がもたらしたガムランである。彼らは、その新天地で伝統あるヒンドゥー文化を中心に、土着の原始宗教や仏教の要素を混同した、独自のバリ=ヒンドゥーの文化を作り上げる。これ以降、バリの芸能は王宮を中心に発達する。舞踊の種類が増えてくるのもこの時期で、特に王の祭政一致による儀礼芸能(仮面劇など)が発達し、その伴奏のための大編成ガムラン・ゴング・グデが登場する。  一方、鑑賞用の芸術舞踊の萌芽も始まり、今日のバリ舞踊の古典といわれるレゴン・ダンスも、この時期を最後に登場する。  バリにおける近代とは、20世紀初頭のオランダによる侵略以降を指す。オランダによって西洋文化との接触が始まり、今日のバリ文化の基礎が形成された。いわゆる「地上の楽園バリ」の誕生である。  この時代の主役は、一般の村人達である。それまで王宮で用いられていたガムランが民間に払い下げられたり、貸し出されたりした。また、ゴング・グデとプレゴンガンの特徴を併せ持った、ゴング・クビャールという新しい演奏形態も生まれた。ゴング・クビャールは新作の器楽曲以外にも、儀礼系の曲や、芸術舞踊の伴奏もでき、さらに神事や一部の精霊供犠にも使えるオールマイティーなガムランとしてバリ中に広まり、現在にいたっている。  バリの社会の基本単位は、「村」よりも一つ小さい単位、バンジャールと呼ばれる村落共同体である。各バンジャールには必ず公民館があり、ガムランの楽器はこの公民館の中に置かれている。バンジャールのガムランの活動は、スクという組織によって行われる。これは音楽好きの村人の同好会、あるいはクラブのようなもので、独自の規約を持ち、選出された世話役によって運営される。スクは祭りでの芸能部門を担当している。儀礼のための音楽と舞踊の練習、余興の芸能の企画、よそのバンジャールの踊り手やガムラン奏者に特別出演してもらう場合のマネージメントなどを、寺のお坊さんと相談しながら行う。そのほか、バンジュールないの公的な音楽活動は、すべてスクの管轄である。  バリの子供は、だいたい5、6歳から、踊りかガムランの演奏を習いはじめる。親が踊り子であったり、ガムラン奏者である場合は、親が教える。そうでない場合は、親戚には一人ぐらい踊り子や奏者がいるので、その親戚が教える。  バリは農業を中心とした共同体社会であり、大家族主義なので、親戚とも家族同然のコンタクトが日常的にある。子供達の周りには生きた「手本」が沢山いて、芸能を中心とした人間関係ができるという。  スクのメンバーは世襲ではないが、親がスクのメンバーだとその子供は自動的にスクの二軍、ないしは予備軍として周囲から目を付けられる。親はスクの練習にひんぱんに子供をつれていく。最初は楽器には触らせずに、大人たちの演奏を見せて、子供が自分も仲間に入りたいという気持ちになるのを待つ。同世代の子供たちが大勢集められることもあるが、大抵は2、3人ずつ大人の中に混じって簡単な楽器から教え込まれる。高齢で引退が近いメンバーのパートに、新しい子供が補充されることもある。子供達は徹底的にしごかれ演奏を身につけていく。そこは完全な実力社会で、子供は大人の社会の仲間入りを果たし生きた芸能を受け継いでいく。  インドネシアでは、日本とは違い欧米のポップスが普及していないという。民族音楽が、宗教とともに生活に根ざしたもののとして、自然にだが強固に伝えられているためだろう。 参考文献 『ガムランを楽しもう』皆川厚一(音楽之友社) 『はじめての世界音楽』拓殖元一(音楽之友社)