池田晶子のオススメ著作リストと感想

『残酷人生論』(朝日新聞社、2010)

在野の哲学エッセイスト(自称は文筆家。)である著者が『論座』に連載したエッセイをまとめたもの。「理解と常識(コモンセンス)」「情報と考えることによって得られる知識」「宇宙的存在としての私と魂」「普遍的な倫理と虚構の道徳」「宗教・信仰の否定と存在・宇宙への信念」「死の不在」といった様々な著者の哲学思考の中心テーマのエッセンスが語られる。

「1 わかる力は、愛である 言葉と対話」弁証法的思考や現象学的な言語感から「わかる」ことや「意味」ついて考察する。そして、哲学による理解や確信が「常識」であり、それは「分別」「良識」とも言い、ソクラテスの「無知の知」を含む「わらからないとうことがわかる」ということである。他者や物事を「わかろうとする意志」は優しさであり、「わからないものをわかろうとする力」が愛であるという。

「2 賢くなれない「情報化社会」 知識と情報」では、メディアからの情報(=ただメディアで流通する物事を知ること)を知ることは必要だろうか意味あることだろうか、本当に人が良くなることなのだろうか、と疑問を述べる。そして、知識(=自ら考えて知ること)が大切であり、さらに魂による宇宙の中の普遍的真理の認識や哲学による生や心についての真実の知識の方を知ることが大切であるとする。

「3 まぎれもなくここに居る 私という謎」では、様々に考察してもパラドックスに陥ってしまう「私」「アイデンティティ」「魂」の問題について考える。私を認識している私はただの脳や心ではない、私は宇宙によって見られる意識であり、私は無いことによって有る「神」である。

「4 人生を、窮屈にしないために 自由と善悪」では、私の社会や世界では「現実として」、言葉で「考える」ことが大切であるとする。「国家」や「貨幣」を考えると、それらは考えることによって存在し動いているとわかる。それらを変革して自由を得るには、一人一人が考え「精神革命」することでしかできないという。また、倫理は形式、道徳は内容であるが、日本での善悪をめぐる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからであり、道徳を強制され、倫理によって自由に人間的欲求としての善を考えていないからである。そして、真善美はイデアであるから真善美であり生きる意味であり、価値、快である。それは超越的な存在ではなく、私たちの精神に内在するものであり、そのことに気づけば私たちは倫理的になることができると言う。

「5 信じること、疑うこと 神と宗教」では、どんな宗教も信仰しないが、神について常に考えているという筆者が、筆者の考える神、つまり、哲学的絶対者、世界の存在の謎としての神、存在そのもの、あるいは私の思考を存在させる一方で私の思考がつくるものとしての神について述べる。本当の救いは事実や困難をありのままに認めることであり、そして、新しい信仰や宗教性は自らによって考えぬくことにあり、それは「垂直的孤独性」「凝縮的透明性」=哲学であると言う。

「6 人生最高の美味を考える 死とは何か」では、死は無であり、死後には私は無になるので恐れることはない、存在しないものに対しては私は何も態度を取ることはできない、と筆者は考える。しかし、「存在しないもの」として死は存在する、この不思議を哲学によって考えることが人生最大の美味であると言う。

「7 あなたが、あなたである理由 魂を考える」では、私という形式だけではなく私という内容や個性、個別性を存在させている一方で宇宙の一部であり全宇宙を反映するものとしての「魂」の不思議について述べる。

「8 幸福という能力 「魂の私」を生きてゆく」では、筆者は幸福であるためには「暮らしぶり」よりも、幸福を感じる/感じられるための魂のあり方が大切だと言う。論理的思考の外に出て「なんでもアリ」、苦しみも喜びも努力もない、という魂の構えが絶対自由であり、この状態が最終的な幸福であるとする。

アカデミックな哲学とは違って、厳密な論理性や正当性や一貫性や論拠に拘らず、哲学する対象の重大さにも拘らず、一人の作家として哲学的な感覚を自由に述べて、多くの人に関連する普遍的日常的哲学問題について気づかせてくれたり、日本人の当たり前だとされているコモンノウリッジへの疑問を述べその誤りを啓発している。様々な著者の中心的な考察テーマのエッセンスが詰まった池田晶子さんの著作の中で最も推薦できる一冊。スリリングに読めて、哲学的思索の出発点となる要素や池田さん独自の思考や見解、結論が多く書かれている。

多くの哲学的「問い」は鋭く哲学の答えの部分も鮮やかだが、エッセイであるためか哲学のプロセスや論拠が省かれている。タームの定義が池田さん独自のものであったり、ある場合は辞書的なものであったりする。学問としての哲学の正しさや厳密性に縛られていない、一方で哲学の議論のプロセスを省いていたり、意見を無理矢理に述べている独善的な決めつけも多い。外国語ができないので「common senseとcommon knowledge」「éspritとâme、cœurの違い」といった外国語で思考すれば解決できる問題を日本語の思考で考えている。(あくまで平易な日本語で日本語の思考で読者に思想を伝えようとしているのかもしれない。)

古代ギリシャから続く哲学的思考の一方で、著者の女性的な軽やかさと生活感覚、エゴ、自由奔放さ、身勝手さ、現代人性や一つの「世界」「宇宙」「国家」「歴史」「形而上学」といった大きなものに囚われず、時にそれに挑んでいく自由な思考によって、新たな哲学的視野が開かれる感覚がある。

論理的思考の領域の外は、「なんでもアリ」、「死後」なんてものは、あろうがなかろうが、どっちでもいいのである。(後略)

このように感じているこの状態こそ、おそらく「最終的な」幸福と呼ばれる状態であろうと、私には予想される。苦しみも喜びもまた努力も、そのように認められているというそのことにおいて、実はいまだに不自由なのである。「なんでもアリ」ということは、なんでもあり、何がどうであろうと構やしない絶対自由なのだから、苦しみは別に喜びではなく、喜びが特に喜びというわけでもない。善くなるための努力とて、とりたてて努力というほどのことでもないであろう。(p.232)

目次:思い悩むあなたへ/プロローグー疑え/1「わかる」力は、愛であるー言葉と対話/2 賢くなれない「情報化社会」ー知識と情報/3 まぎれもなくここに居るー私という謎/4 人生を、窮屈にしないためにー自由と善悪/5 信じること、疑うことー「神」と宗教/6 人生最高の美味を考えるー死とは何か/7 あなたが、あなたである理由ー魂を考える/8 幸福という能力ー「魂の力」を生きてゆく/エピローグー信じよ/あとがき/池田晶子・著作案内

『人生のほんとう』(トランスビュー、2006)

カルチャー・スクールでの講義録だが、却って、池田晶子さんの哲学思考のエッセンスと全体、結論と望みが書かれ、「生と死」「自己性の謎」「今の現象のみがあること」「存在の問いとしての宇宙」「魂」「社会、世間、国家は幻想でしかない」「信仰と宗教的なもの」「存在と現象」といったメインの考察テーマについての所説が最も体系的にまとめられた池田哲学を深く理解できる一冊。

「I 常識」では、コモン・センスという言葉は使わないが、それは「普遍的な知識」であり、全ての人にとって当たり前なことを考え抜くことが哲学であるという。それによって人生の見方が逆転し、人は世界に生かされていて、死は存在せず、私は存在しないという意識があれば、地上の苦しみは錯覚でありそれから解放されるとする。

「II 社会」では社会、国家、家族、血縁、(倫理ではない)道徳などは虚構、幻想であり、それが戦争や不自由を起こしているとする。個人個人が「自分は誰でもないが自分は誰でもある」と認識する「精神の革命」によってプラトンのいう理想国家が実現されることを願う。

「IV 宗教」では、現在の宗教と呼ばれものを「宗教は人生の意味ではない」と否定する一方で、般若心経や臨済宗の思想を検討し、独特の宗教によらない哲学による宗教的な存在や宇宙への信仰とそれによる救いの可能性を示す。

「V 魂」では哲学最大のアポリアの一つである自己性の謎、つまり私の魂あるいは精神の存在の謎について考える。魂とは実体化をどこまでも拒むもの、事物の関係性そのもの、自然あるいは宇宙の一部であり、私の個人の生死は大した問題ではないとする。

「VI 存在」は形而上学的な考察ではなく、私たちは現実か夢なのかわからない「謎を生きている」、存在や宇宙は空であるという認識から、物質的な物事、プラクティカルな事に捉えられた現代人の実存の変質とその拝金主義、脳科学やスピリチュアルの流行、エゴイズムを批判する。

独特の生活に根差したクリティカルな哲学的思考で様々なテーマで日常や世間の常識(common knowledge)を疑い、「当たり前のこと」としての「常識」事物の普遍的構造や哲学的真実(common sense, bon sens)を示す。そして、哲学することや哲学的な意識の変化によって、(日本で社会的に作られた「よく生きなければいけない」というモラルやコモン・ノリッジを超えて)それぞれの個人が本当に人生をよく生きることの大切さを述べ、そのための筆者の哲学的な考え方や望み、願いを示す。

 ですから、それはむろん、「社会革命」とはいえないようなもので、あえて言うなら「精神の革命」という言い方もできるのでしょう。「革命」と言うと大げさに聞こえますが、要するに自分に気がつくというだけのことです。(中略)つまり、永遠ということ、そうですね、永遠性ということを自覚することで、やはりよいのですね。たぶん、それでよいと言えるでしょう、わかりませんけどね。わからないのだから、おそらく、われわれが宇宙に存在して、いや本当は自分しか存在しないのだけれども、やっぱり大勢で存在しているということを自覚するということは、何を自覚することなのか。この辺のこと、何を言ってるかわかるかな。(笑)(p. 62)

目次:I 常識 生死について/II 社会 その虚構を見抜く/III 年齢 その味わい方/IV 宗教 人生の意味/V 魂 自己性の謎/VI 存在 人生とは何か/あとがき

『14歳からの哲学 考えるための教科書』(トランスビュー、2003)

池田晶子さんが考えてきた様々な哲学的テーマについての問いや考察を14歳と17歳の青少年に向けて真摯に同時に優しく語り問う。それぞれの節は6〜8ページ程度。平易な言葉で特定の哲学者や哲学の学派の知識やタームを用いず、具体的ではないが例を挙げながら優しく青年たちに根本的根源的な日常的哲学的問題について語りかける。だが、漢字をあまり使わず優しく易しい言葉で書かれているので、大人にとっては却って読みづらい。また、特定の哲学・哲学者の知識をほとんど使わずに丁寧に説明をしているので文章が長い。だからこそ、一方で、池田さんの他の著作以上に、あるいは違った角度やテーマから、哲学の根本問題、最大問題に迫っている部分もあり、また、問いだけではなく、哲学のプロセスや根拠や例が示されていて、池田さんの答えや若い人と未来への希望、願いも書かれている、そして、感動的な部分もいくつかある(特に二部の後半)。

全体は三部に分かれ、一部では哲学の形而上学的な基礎的原理的な問題、二部では社会的応用的な問題を扱う。三部では17歳へ向けて現在問題になっている哲学的トピックについて易しく池田さん独自の考えを述べる。

最初の「考える 1–3」では、様々なことを「思う」だけではなく「考える」ことで、「正しいこと」=真理やコモンセンス、規順にたどり着くということがあること。「考える」ことを尊重することで自分も他者も自由になれるということ。その「誰にとっても正しいこと」、自分もみんなも生きていて考えているという不思議な感じを考えること=哲学を考えることが本当に生きることだと述べる。

「言葉 1–2」では、プラトンのイデア論、記号学、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論的な観点から言葉の意味や抽象概念の不思議について提示する。そして、言葉が現実を作るのであり、言葉によって真剣に「正しい」こと「美しい」こと考えなければ、それらを知ること得ることはできないとする。

「死を考える」では、死は「有無」の不思議の問題であるから、死は無であり、無は無いから、「無いということ」は有るとも無いともいうことができる。人は死についてわかることができないと教える。

「心はどこにある」では、心は脳ではなく科学で捉えることはできず、どこにあるかわからない。心はある意味で人にとって全てである。心は「精神」と「感情」であり、精神によって考え、精神によって感情を観察することで自分であり自分でない心のあり方を考え続けることほど面白いことはないと述べる。

「社会」では、社会は人々の内にある観念であり物のように実在しない。社会はそれがあると思っている人々の観念が現実として現れたものに過ぎないが人々を規制する。社会は人々の観念が作ったものだから、社会を変えるには、人々の精神が変わり良くなるしかないとする。

「友情と愛情」では、孤独に耐えられない人がそれを解消するために求める友達は本当の友達ではない。孤独に耐え、自分を愛することができ、考えるという自分との対話をして哲学や思想を持っている者同士の友情こそ素晴らしいとする。

「宇宙と科学」では科学的宇宙物理学的な宇宙の存在の問題より、現象学的デカルト的な認識としての宇宙や物質の存在の謎が大切だとする。

「善悪 1–2」構築主義的な考察の一方で徳倫理学的な観点から善悪の相対性と本質性・絶対性について述べる。「よい」という言葉の意味は絶対に「よい」であるから、絶対に「よいこと」は存在し、それは人々の精神の中にある。

「人生の意味 1」では、宇宙には意味はなく、人生にも意味や理由はない。人生に意味や価値を求めることは人の誤りや弱さだが、宇宙の中で私の人生が存在することは奇跡であり、この奇跡を尊重し「有り難い」ことだと思うことが大切だと言う。最後に「存在の謎 2」では、その存在の奇跡の謎という絶対の真理を考えて生き続けること=哲学することの意義を述べる。

というように、本書は「哲学入門書」ではなく「哲学的思考の紹介書」であり、「哲学解説書」ではなく「哲学の本」であるので、だからこそ、本当の「哲学初歩」について書いている。様々な哲学的テーマについてクリティカルな哲学的センスで問いを発して、まだ思想が固定化する前の青少年に「言葉の意味の不思議」「自分や心とは何か?」「他者とその精神は本当に存在するか?」「社会や国家なんてあるのだろうか?」「「道徳」や規則は本当に正しいことなんだろうか?」「人生に意味や理由はない」といった哲学的で根本的な当たり前で不思議だが誰にでも関係する考えるべき問題を投げかけ、そして、池田さんの答えや願い、希望を伝える。

「現実は人々の理念が現れた者であり、理想を持っていれば現実は変わる、すでに変わっている」「人生の意味や目的を求めること自体が人生への覚悟がない証拠」「神は死を恐れ生の意味を求める人間がつくったもので、信じるか信じないのかという問題に過ぎずそれは存在しない」「死は無であり、無はないのだから、死を前提にして生きることはできない」など著者による論拠のない唯物論的実存主義的で独善的な決めつめも多い。だが、それを自分の精神で批判し考えることが哲学であるかもしれない。この本を哲学の理論や例を挙げながらさらに精緻に論証した著作を私は読みたい。

 けれど、戦争している国のどっちが正しいなんてことを、そもそも判断することができるものだろうか。しょせん人間のすることだ。どちらにも言い分はあるというそれだけのことだ。もしも日本に戦争が起こったとしたら、君が知るべきことは、どちらが正しいか、ということではなく、その中で自分はいかに正しく生きるのかということではないだろうか。つまり、「正しい」とは、そもそもどういうことなのか。それ以外に人間が人生で知るべきことなどあるだろうか。(p.132)

目次:

  • I 14歳からの哲学[A](1 考える [1]/2 考える [2]/3 考える [3]/4 言葉 [1]/5 言葉 [2]/6 自分とは誰か/7 死をどう考えるか/8 体の見方/9 心はどこにある/10 他人とは何か)
  • II 14歳からの哲学[B](11 家族/12 社会/13 規則/14 理想と現実/15 友情と愛情/16 恋愛と性/17 仕事と生活/18 品格と名誉/19 本物と偽物/20 メディアと書物)
  • III 17歳からの哲学(21 宇宙と科学/22 歴史と人類/23 善悪 [1]/24 善悪 [2]/25 自由/26 宗教/27 人生の意味 [1]/28 人生の意味 [2]/29 存在の謎 [1]/30 存在の謎 [2])

『14歳の君へ どう考えどう生きるか』(毎日新聞社、2006)

『14歳からの哲学』の哲学的・根本的な内容と記述をより具体的で現実的・社会的な内容と記述として、分量としても表現としてもコンパクトに6章にまとめ、ある意味で分かりやすくかつ解りやすくし、学生・青少年への問いかけというより自身のエッセイとして書き直した本。内容は『14歳からの哲学』とほぼ変わらないのでどちらも読む必要はないです。『14歳からの哲学』の「考える 1–3」「人生の意味 1–2」「存在の謎 1–2」の哲学の根本的で原理的な思考や問題意識の記述が省かれていたり薄いことや、それらによって少年へ自分の精神で考えさせる方向性が弱いこと、哲学や哲学的思考を誤解する可能性もあることもあるので、私は『14歳からの哲学』の方を読むことを勧めます。

考えれば考えるほど、謎は深まる。考えているのは、他でもない、この人生が存在するという謎だから、考えるほどに、人生は味わい深い、面白いものになってくる。どういうわけか生まれてきて、せっかく生きているのだから、この面白さを、めいいっぱい楽しんでみたいと思わないか。大変だけれども、やり甲斐のあることだ。ひょっとしたら、それが、このわけのわからない人生が存在するということの、意味なのかもしれないよ。(p. 187)

目次:はじめに 14歳の君へ/I ほんとうの自分 ほんとうの友達(友愛/個性/性別/意見)/II 考えれば知ることができる(勉学/歴史/社会/道徳)/III 君は「誰」なのだろう?(戦争/自然/宇宙/宗教)/IV どう考え どう生きるか(言葉/お金/幸福/人生)/あとがき 保護者ならびに先生方へ

『死とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子、わたくし、つまりNobody編(毎日新聞社、2009)

池田晶子さんの未発表原稿をまとめた本であり、「死」について書かれている部分は多くはないが、「長生き万歳?」「人生は量ではなく質」「死とは何かーー現象と論理のはざまで」で池田さんの死に対する考え方のエッセンスが書かれている。「先に死があることによって人生は充実する」「人は死を体験できない、それはわからない、また死によって私は存在しなくなる、つまり無になるのだから、死を恐れることはない」「自然、宇宙、存在、自分の謎について考え、生死を超えた「語りえぬもの」に近づくこと、信仰すること」などである。死の認識と死を想うこと(メメント・モリ)は大切だが、死と死によって無になることを恐れ、それを忘れないこと、その観点によって物事を考え生きていくことが大切だと私は思う。

他には、池田さんの哲学の主要テーマである「哲学して生きることの意義」「コンビニエントな技術・情報社会への疑問」「宇宙の中の存在としての自分とその魂が存在することの謎」「自分の言葉によって考えることの意味と価値」などが扱われている。

 死を恐れる理由はありません。生命は有限であるからこそ、価値がある。もしも、生命が無限になれば、価値もなくなるはずです。生命に執着することは、生命が有限である限り、人を不幸にします。人生の意味と無意味は、人生の意味と無意味を徹底に考え抜くことしかない。死とは何かを考え、自覚的に生き、死ぬしかないと思います。(pp.25 – 26)

『知ることより考えること』池田晶子(新潮社、2006)

物事を知るだけではなく考え続けていくこと=哲学して生きること、ただ情報を「知ること」ではなく、考えてあるいは哲学をして得た知=知識が大切だという池田晶子さんの根本思想やクリティカルな哲学的思考から考える様々な世の中の出来事や流行、風潮、日本で当たり前な事だとされていることを疑い池田さんの考えを述べる「哲学的エッセイ集」。(「哲学のエッセイ」ではない。)存在や死の謎とその尊重、言葉や内面は大切でありその人の魂そのものであるという哲学的ポリシー、在野の文筆家としての自由な立場、女性的な生活感覚と直感から、人間の精神と人生にとって本質的に大切なものとは何かを問い、資本主義とビジネス社会、拝金主義、情報化社会とインターネット、道徳教育、国家感とその教育、メディア型政治、格差社会とそれへの意識、安全志向、科学信奉、スピリチュアルなどをそれらの現象を作っている言葉や思考も含めて根本的な部分に哲学的に疑問や考えを述べる。

外から提供される刺激のことを娯楽だと思い込んでいる現代人は、本当の娯楽を知らない。自分で楽しむということを本当は知らないのだ。だから人は病的に退屈を恐れる。強迫的に娯楽を求めるのは、退屈することが何よりも恐いからだ。何もすることがない、何もしないということは、地獄に等しい業苦に思える。(pp.166 – 167)

目次:第一章 自分とは何か/第二章 悪いものは悪い/第三章 人間の品格/第四章 哲学のすすめ/あとがき

『私とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子、わたくし、つまりNobody編(講談社、2009)

『死とは何か』『魂とは何か』と同じ装丁、同じシリーズの哲学エッセイの書籍未収録原稿集。タイトルと違い、私が読みたかった現象学・実存主義・ヴィトゲンシュタインに連なる池田晶子さんの「私について考えつづける」「私は存在しない」「私は宇宙あるいは自然によってつくられ、生かされている魂」「私は宇宙や世界を反映する器」「私は今の現象」「私は死ねば存在しなくなる」という「私」論については僅かしか書かれていなかった。

しかし、「「私とは誰か」から考えよう」というエッセイでは、「私」「精神」「存在」「宇宙」「国家」「経済」「情報」などのテーマが結び付けられて簡潔に池田さんの思想の全体像と目的が描かれている。

人間は皆、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。単独の精神性をひとりひとりが自覚する。自分とは誰かということをひとりひとりが考えるところから新しい人類の歴史ははじまるし、変わるんです。(p.223)

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池田晶子さんが考えてきた様々な哲学的テーマについての問いや考察を14歳と17歳の青少年に向けて真摯に同時に優しく語り問う。それぞれの節は6〜8ページ程度。平易な言葉で特定の哲学者や哲学の学派の知識やタームを用いず、具体的ではないが例を挙げながら優しく青年たちに根本的根源的な日常的哲学的問題について語りかける。だが、漢字をあまり使わず優しく易しい言葉で書かれているので、大人にとっては却って読みづらい。また、特定の哲学・哲学者の知識をほとんど使わずに丁寧に説明をしているので文章が長い。だからこそ、一方で、池田さんの他の著作以上に、あるいは違った角度やテーマから、哲学の根本問題、最大問題に迫っている部分もあり、また、問いだけではなく、哲学のプロセスや根拠や例が示されていて、池田さんの答えや若い人と未来への希望、願いも書かれている、そして、感動的な部分もいくつかある(特に二部の後半)。

全体は三部に分かれ、一部では哲学の形而上学的な基礎的原理的な問題、二部では社会的応用的な問題を扱う。三部では17歳へ向けて現在問題になっている哲学的トピックについて易しく池田さん独自の考えを述べる。

最初の「考える 1–3」では、様々なことを「思う」だけではなく「考える」ことで、「正しいこと」=真理やコモンセンス、規順にたどり着くということがあること。「考える」ことを尊重することで自分も他者も自由になれるということ。その「誰にとっても正しいこと」、自分もみんなも生きていて考えているという不思議な感じを考えること=哲学を考えることが本当に生きることだと述べる。

「言葉 1–2」では、プラトンのイデア論、記号学、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論的な観点から言葉の意味や抽象概念の不思議について提示する。そして、言葉が現実を作るのであり、言葉によって真剣に「正しい」こと「美しい」こと考えなければ、それらを知ること得ることはできないとする。

「死を考える」では、死は「有無」の不思議の問題であるから、死は無であり、無は無いから、「無いということ」は有るとも無いともいうことができる。人は死についてわかることができないと教える。

「心はどこにある」では、心は脳ではなく科学で捉えることはできず、どこにあるかわからない。心はある意味で人にとって全てである。心は「精神」と「感情」であり、精神によって考え、精神によって感情を観察することで自分であり自分でない心のあり方を考え続けることほど面白いことはないと述べる。

「社会」では、社会は人々の内にある観念であり物のように実在しない。社会はそれがあると思っている人々の観念が現実として現れたものに過ぎないが人々を規制する。社会は人々の観念が作ったものだから、社会を変えるには、人々の精神が変わり良くなるしかないとする。

「友情と愛情」では、孤独に耐えられない人がそれを解消するために求める友達は本当の友達ではない。孤独に耐え、自分を愛することができ、考えるという自分との対話をして哲学や思想を持っている者同士の友情こそ素晴らしいとする。

「宇宙と科学」では科学的宇宙物理学的な宇宙の存在の問題より、現象学的デカルト的な認識としての宇宙や物質の存在の謎が大切だとする。

「善悪 1–2」構築主義的な考察の一方で徳倫理学的な観点から善悪の相対性と本質性・絶対性について述べる。「よい」という言葉の意味は絶対に「よい」であるから、絶対に「よいこと」は存在し、それは人々の精神の中にある。

「人生の意味 1」では、宇宙には意味はなく、人生にも意味や理由はない。人生に意味や価値を求めることは人の誤りや弱さだが、宇宙の中で私の人生が存在することは奇跡であり、この奇跡を尊重し「有り難い」ことだと思うことが大切だと言う。最後に「存在の謎 2」では、その存在の奇跡の謎という絶対の真理を考えて生き続けること=哲学することの意義を述べる。

というように、本書は「哲学入門書」ではなく「哲学的思考の紹介書」であり、「哲学解説書」ではなく「哲学の本」であるので、だからこそ、本当の「哲学初歩」について書いている。様々な哲学的テーマについてクリティカルな哲学的センスで問いを発して、まだ思想が固定化する前の青少年に「言葉の意味の不思議」「自分や心とは何か?」「他者とその精神は本当に存在するか?」「社会や国家なんてあるのだろうか?」「「道徳」や規則は本当に正しいことなんだろうか?」「人生に意味や理由はない」といった哲学的で根本的な当たり前で不思議だが誰にでも関係する考えるべき問題を投げかけ、そして、池田さんの答えや願い、希望を伝える。

「現実は人々の理念が現れた者であり、理想を持っていれば現実は変わる、すでに変わっている」「人生の意味や目的を求めること自体が人生への覚悟がない証拠」「神は死を恐れ生の意味を求める人間がつくったもので、信じるか信じないのかという問題に過ぎずそれは存在しない」「死は無であり、無はないのだから、死を前提にして生きることはできない」など著者による論拠のない唯物論的実存主義的で独善的な決めつめも多い。だが、それを自分の精神で批判し考えることが哲学であるかもしれない。この本を哲学の理論や例を挙げながらさらに精緻に論証した著作を私は読みたい。

信じる前に考えて、死は存在しないと気がつけば、死後の存在など問題ではなくなるはずだし、死への恐れがなくなれば、救いとしての神を求めることもなくなるはずだ。そして、救いとしての神を求めることがなくなれば、にもかかわらず存在しているこの自分が、あるいは宇宙が森羅万象が存在しているのはなぜなのかと、人は問い始めるだろう。この「なぜ」、この謎の答えに当たるものこそを、あえて呼ぶとするのなら、「神」の名で呼ぶべきなのではないだろうかと。

この意味での「神」は民族や宗教によって違わないし、信じる信じないとも関係がない。なぜならそれは、自分や宇宙が「存在する」ということそのものだからだ。「存在する」ということは、信じることではなくて、認めることだ。それを事実として認めることだ。(p. 177)

商品詳細

14歳からの哲学 考えるための教科書
池田晶子
トランスビュー、東京、2003年3月20日
1320円、209ページ
ISBN: 9784901510141
目次:

  • I 14歳からの哲学[A](1 考える [1]/2 考える [2]/3 考える [3]/4 言葉 [1]/5 言葉 [2]/6 自分とは誰か/7 死をどう考えるか/8 体の見方/9 心はどこにある/10 他人とは何か)
  • II 14歳からの哲学[B](11 家族/12 社会/13 規則/14 理想と現実/15 友情と愛情/16 恋愛と性/17 仕事と生活/18 品格と名誉/19 本物と偽物/20 メディアと書物)
  • III 17歳からの哲学(21 宇宙と科学/22 歴史と人類/23 善悪 [1]/24 善悪 [2]/25 自由/26 宗教/27 人生の意味 [1]/28 人生の意味 [2]/29 存在の謎 [1]/30 存在の謎 [2])

『14歳の君へ どう考えどう生きるか』池田晶子(毎日新聞社)

『14歳の君へ どう考えどう生きるか』は『14歳からの哲学』の哲学的・根本的な内容と記述をより具体的で現実的・社会的な内容と記述として、分量としても表現としてもコンパクトに6章にまとめ、ある意味で分かりやすくかつ解りやすくし、学生・青少年への問いかけというより自身のエッセイとして書き直した本。内容は『14歳からの哲学』とほぼ変わらないのでどちらも読む必要はないです。『14歳からの哲学』の「考える 1–3」「人生の意味 1–2」「存在の謎 1–2」の哲学の根本的で原理的な思考や問題意識の記述が省かれていたり薄いことや、それらによって少年へ自分の精神で考えさせる方向性が弱いこと、哲学や哲学的思考を誤解する可能性もあることもあるので、私は『14歳からの哲学』の方を読むことを勧めます。

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人生論・幸福論・ストア哲学の名著リスト

責任論・自己責任論・常識論ブックリスト

死の哲学ブックリスト

『双書 哲学 「死」を哲学する』中島義道(岩波書店)

日本で最も死を怖れ、死について真摯に考えている哲学者の死についての連続講義。

逃れることのできない「私」あるいは「自己」の切実な問題としての死のあり方から出発して、著者の専門である時間論から死を考察し、そこから生前/死後、自己/他者で分断されざるをえない死の性質について述べる。さらに「不在と死」の違いや関係、「純粋な無」としての死のあり方といった形而上学的・存在論的考察をする。そして、死後にも私の意識が存在するかもしれない論理的可能性、他者との壁や言葉の限界や無それ自体を超越する死による救いの可能性について述べる。

「第1日 死と人生の意味」死と人生の意味の全体的基礎的問題を提示する。すべての人はいつか死んでしまう。人類も地球も宇宙もすべて消滅する時が必ず来る。それなら喜びや苦悩も含めて人生に何の意味があるのだろう?著者にとっての死への恐れとは単に無になるというよりも、私は無であったのに、永遠の時間の中の一瞬の間だけ存在して、また永遠に無になるという残酷なあり方に対する虚しさだという。人生の確固とした意味を獲得するには、人はいつか死に人類も無になるという無意味さの「構図」の中に留まりながら無視をするのでもなく、そこから出るのでもなく、その構図そのものを徹底的に探究する必要があるとする。

「第2日 死ぬ時としての未来(1)」「第3日 死ぬ時としての未来(2)」未来が予測的できないこと、存在を証明できないことの形而上学的問題を時間論を用いて説明する。私は死ぬ時としての未来は、「私の死」が概念として完全に無ではないことと関係して新たな問題として浮上する。

「第4日 私の死・他人の死」言語という記号で体験する行為は他者のそれとは同じとは限らない。概念で共有される家族的類似性の範囲での同一性でしか理解できない。死は最も自分と他者の体験の差異性を実感するものである。私の死が恐ろしいのは、無になるからではなく、ハイデッガーの言う「追い越し不可能性」によって、他者の死を認めることができるのとは違い、それを確認することができないところにある。

「第5日 不在と死」は、基本的には死は完全な不在ではなく完全な無であるとする。不在は、あるものがいなくなった先の「どこか」という場所との関連で決まり、不在には「不在を確認する視点」が必要である。死後も私は想起をする機能があれば私は無でなく不在である。死後も神のような絶対的な他者の視点で私の体験を想起できる可能性があるかもしれないと言う。

「第7日 「無」という名の無・死の超克」私の死は、それが起こっても、確認するという現在を持たない対象である。私の死とは、永遠に超越できない他者としての他人ではなく、現在から溯って確認できる他者としての未来でもなく、両方の性格を持っている。私が死ぬと、私は私と他者との壁を打ち破って無それ自体へ超越し、言葉の境界を越える。

カントを中心として、ハイデッガー、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、メルロ=ポンティなどの知見を用いて死の性質や構造、意味を形而上学的・存在論的に様々な考察を展開する。哲学的・形而上学な意味での死の構造を記述し、現代では省みられなくなった形而上学的な死そのものの本質やその死後の可能性に迫っている。一つの形而上学的な死の哲学的考察を知りたい人に推薦する。

目次:第1日 死と人生の意味/第2日 死ぬ時としての未来(一)/第3日 死ぬ時としての未来(二)/第4日 私の死・他人の死/第5日 不在と死/第6日 「無」という名の有/第7日 「無」という名の無・死の超克

『死の哲学』小浜逸郎(世織書房)

保守派評論家の著者が哲学や死の思想、小説などを引用しながら、人間の死というもの、現代の死の問題について考察し独自の意見を述べる死の哲学の講義録。

「第一講 死のイメージ 身体論」では、死をそのイメージの問題(死に対する見方・考え方)として考える。現代では、科学の発展や世俗化によって死は形而上学的な思考、宗教的な霊魂の不死の問題といった関心を失って、愛や記憶も含めた全体的な身体性の消失の問題になっていると考察する。そして、私は死についてその身体性の問題としてしか考えれれないし、考えていかなければいけないと指摘する。

「第三講 共同性と死 共有論」では、個体の死を生殖と同じプロセスだとし、超個体的な意志の表れの一つだとしたショーペンハウアーの死に対する思想を、自然主義やリアリズムによる実存主義的なものだと批判する。次に、死は非連続的な人間がエロティシズムとして連続性を実現する意味を持つとしたバタイユの考察を批判的に検討し、死は人間の生活を規定するものだが、エロス性は限界状況ではなく日常的な生活や交流の中に存在し、時にやって来る親しい人の死は他者との非連続性を自覚させそれを超える契機をもたらすことに意味があるとする。

「第四講 日常性と死 孤独論」ハイデッガーによる死の考察、現存在の「先駆的決意性」や「死の追い越し不可能性」について紹介し、覚悟性を忘れたダス・マンの頽落、現存在の非本来的なあり方、死の隠蔽、気安め、また、それらが却って日常での死への関心となっているというハイデッガーの死の考察の独自性を述べる。しかし、この考察にはキリスト教的倫理観や倫理の自閉性があり、日常性を価値の低いものと見做していてダス・マンの日常の生を肯定できないものになっていると違和感を述べる。翻って、死の認識は人間が共現存在であることを確認するものであり、死による有限性の自覚がポジティヴな人間の生の条件や動機になっているとする。

「最終講 私たちは死をどう生きているか 情緒論」私たちはまたに死に対する不安を感じながらも日常生活の仕事や雑事に追われてそれを忘れてしまうというように「生に対する懐疑的な感情」と「生への本能的執着」の二重性を生きている。その矛盾した構造を人間は生きなければいけないという自覚が重要である。私たちは死を引き受けながら、来世に救いを求めたりニヒリズムに陥るのではなく、情緒や性愛関係という共同的な営みによって死を含めた個別性を超克するという形で現世や生命を肯定していかなければならない。

筆者は実存主義的な死の認識や死への絶望を基礎にしながらも、死への不安、死の個別性や非存在性を乗り越えて、共同性やエロティシズム、生きる動機を得るためのものとしてポジティブに生を生きていくための倫理学的なレベルで生の日常の実感としての存在論的な問題としての死についての普遍的な論理を探る。一つの死の考察として十分に価値のあるものだが、しかし、私にはハイデッガーやバタイユの考察と何が決定的に違うのかよくわからない。

私たちの生はたえず死によって見つめられている、そしてそのことを私たち自身が、無意識の領域も含めて、心身の総過程をあげて、あるわかり方によってつかみつつ自らの生の運動を組み立てている、そういう意味で、人間にとっての死とは、一種の知の力だと言えるのです。人間の固有の死の自覚のあり方、死を知っているというあり方が、むしろ生の条件をかたちづくることになる。そういうものとして死を理解することが大事なのではないかと思うのです。(p.191)

目次:まえがき/第一講 死のイメージ 身体論/第二講 家族と死 共有論/第三講 共同性と死 共有論/第四講 日常性と死 孤独論/最終講 私たちは死をどう生きているか 情緒論/あとがき

『人はなぜ死ななければならないのか』小浜逸郎(洋泉社新書y)

『癒しとしての死の哲学』小浜逸郎(洋泉社MC新書)

『死とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子、わたくし、つまりNobody編(毎日新聞社)

池田晶子さんの未発表原稿をまとめた本であり、「死」について書かれている部分は多くはないが、「長生き万歳?」「人生は量ではなく質」「死とは何かーー現象と論理のはざまで」で池田さんの死に対する考え方のエッセンスが書かれている。「先に死があることによって人生は充実する」「人は死を体験できない、それはわからない、また死によって私は存在しなくなる、つまり無になるのだから、死を恐れることはない」「自然、宇宙、存在、自分の謎について考え、生死を超えた「語りえぬもの」に近づくこと、信仰すること」などである。死の認識と死を想うこと(メメント・モリ)は大切だが、死と死によって無になることを恐れ、それを忘れないこと、その観点によって物事を考え生きていくことが大切だと私は思う。

他には、池田さんの哲学の主要テーマである「哲学して生きることの意義」「コンビニエントな技術・情報社会への疑問」「宇宙の中の存在としての自分とその魂が存在することの謎」「自分の言葉によって考えることの意味と価値」などが扱われている。

 死を恐れる理由はありません。生命は有限であるからこそ、価値がある。もしも、生命が無限になれば、価値もなくなるはずです。生命に執着することは、生命が有限である限り、人を不幸にします。人生の意味と無意味は、人生の意味と無意味を徹底に考え抜くことしかない。死とは何かを考え、自覚的に生き、死ぬしかないと思います。(pp.25 – 26)

『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)

「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。

「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。

「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。

「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。

主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。

真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。

とりわけ、そのように生死に捕われない悟りの境地が、どのようにして、葛藤と矛盾に充ち充ちたこの現実世界のなかで生き方の具体的な形成原理を提供しうるのかが、問題である。むしろ反対に、生存への執着をとことん突きつめ、それを徹底してゆくことによってこそ、それを乗り越える境地が開かれうる、ということもまたあるのではないであろうか。生死に捕われないといった、寂静や解脱や悟りでなく、むしろ反対に、死にさらされた人生の現実の分裂と対立、苦悩と葛藤を直視し、それを徹底して引き受け、そのなかで踠き、苦闘することをとおして、人生を積極的に戦い抜いてこそ、自己の存在の本質と限界を知りえ、おのれに達しえざるもののあることをも率直に承認し、こうして泰然自若の諦念において、有限な人生に肯定し、従容として死をも受け容れることが可能になるということも、またあるのではないであろうか。(p.31)

目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引

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