「「他者」というアポリア」

1.他者について考える
1.1.なぜ他者と他我が問題になるのか
私がいる。私の意識があって、それと一体となっている私の身体もある。私の視覚には像が映る。そこに私と同じような身体をもった他者がいて、私というものと同じ種類のものとして、それには何か特別の資格が与えられている。それは他の物や動く物とも動物とも違って、特異な意味や価値を持ち、私はその存在の特異性を意識せずにはいられないし、逆に私がそう意識されているだろうと感じる。私は他者の存在がそこにあるだけで安らぎや居心地の悪さなど、何か特別の感覚を感じる。それは、他者が私と同じような肉体を持ち、私と同じような意識や心、精神といったものを持っている、と私が感じずにはいられないからである。
私と同じような身体として他者がいることは確かである。そして、その他者は私と同じような精神や理性を持っていそうではある。言語を用いなくても仕草やアイコンタクトなどで、“同類のもの”としての独特のコミュニケーションもそこに構築される。だが、他者が本当に何を感じ、何を考え行動しているのか、ということはなかなかわからない。身体としての動き話す他者の実存は確認できるが、身体というその容れ物や殻の中に本当に他者の精神や心が実在するのか、という疑いを取り除くとこはできない。身体の解剖をして肉体や脳を取り出して切り刻んでみても、他者の意識が実在するものか確認することはできないだろう。
だが、日常生活は他者の心を推し量り、互いに配慮をすることによって何事もなく成立している。私はその他者の意識や心の実在への問いを留保して、あるいは忘れることで日常生活を送ることができている。
私はテーブルに座っていて、その中央に赤いリンゴが一つある。私は視覚でそのリンゴを赤色だと知覚している。嗅覚で甘く酸味のある香りを感じる。手にそのリンゴをとる。私はずっしりした重さや、皮のつるつるした感触を感じ、手の中で形を確認する。テーブルの向かいに他者が座っていて、その他者にリンゴを手渡す。他者はリンゴを手にとり眺めている。その他者は、私と同じ形や重さ、感触を感じていそうだ。だが、果たしてリンゴが私と同じ色に見えていて、私と同じ匂いを感覚しているのか、ということは私は知ることができない。
ひとつのリンゴという実在のものとそれをとりまく実在の世界があるとして、他者の意識が知覚しているものが私の意識が知覚しているものと同じものなのかはわからない。そうすると、さらに、私の意識が知覚しているものが実在の世界の正しい認識であるという確かさが揺らぎ、や自信が持てなくなる。私の意識と他者の意識、それに実在の世界は、それぞれ固いカプセルに囲まれていて、私や他者は知覚というフィルターを通して、細いチューブからその一部を得ているだけであるとモデルが描ける。
他者の意識が私と同じ知覚を同じものとして感覚しているのか。つまり、同じ色を見ているのか、同じ音を聴いているのか、同じ匂いを嗅いでいるのか、私には知る術がない。結局、命が尽きるまで(尽きても)私は私の身体とそれによる知覚と感覚しか体験することはできない。
哲学における他者や他我にまつわる最大のアポリアとは、結局、他者の精神や意識といったものに、私が直接触れることもできず、体験することもできない、その実在を確認することができないことである。
1.2.他者問題と世界観
私はひとつの世界の中心である。私の生きている世界は私の意識や身体を中心に形成される。同じように他者もそれぞれ彼ら自身を世界の中心として生きていて、その背後には生い立ちや家庭、職場、学歴、趣味といったバックグラウンドがあることになっている。だが、満員の国立競技場の5万人の大観衆の中にいると、環境世界というものが60億人の人々の膨大なデータの情報量を支えられるのか、それだけの情報量が世界に存在するのか、という疑念が生じてくる。
私は他者に精神や意識といったものがあるのか疑う。本当に人間であるのかを疑う。私の見ている他者は精巧にできたアンドロイドかもしれないし、私の見ている世界や他者は脳に与えられているヴァーチャル・リアリティなのかもしれない。
アンソニー・ギデンズは『社会学』において、近代の教育やマスメディア、交通がもたらした世界観の意味を示すための反証として、以下のような例を挙げている。18世紀のフランスの農民は、一生、故郷の農村を離れることはなく、限られた人々としか交流せず、国家や世界について漠然とした認識をもっているに過ぎない。[ギデンズ、1992:462-463]
現代社会の中で、私たちは「世界」や「宇宙」といった概念を確かに持っている。私が世界や宇宙というものの中でおそらくどういった位置にいて、どういった国家や組織の一員として暮らしているのか、一応は知っている。だがしかし、本当に「世界」や「宇宙」は本当に存在しているのだろうか?世界はヴァーチャル・リアリティで造られていて、私の行動する範囲だけが存在しているのかもしれないし、それにテレビやインターネットの映像や情報は、私のためだけに誰かがつくり、送信しているのかもしれないという、想像をすることができる。
こういった私の生きている世界は人為的に造られたヴァーチャル・リアリティや精巧で大規模なテレビ番組のセットで私は操られ、誰かに監視されているだけなのかもしれない、という<『トゥルーマンショー』的不安>について、思いを巡らせることができる。
この不安の原因の一つは、他者の意識や精神の実在が信頼できないことにある。多くの他者の精神や意識の実在が確実ならば、私の見ている環境、世界や宇宙の実在、そして、伝聞や歴史の世界の実在もかなり確信できる。他者や他者の心や意識の哲学問題は世界観や世界の実在の問題とも関連する。そして、他者の心や意識の実在は、神の誠実性や絶対者の存在などに頼らずに世界の実在を確信させてくれるものでもある。

2.デカルトにおける他者の「不在」
デカルトの『省察』における、窓から見える通行人に対する「しかし私は帽子と衣服のほかに何を見ているのか、その下には自動機械が隠されているかも知れないではないか。」[デカルト、2006:54]という記述は、デカルトの形而上学が他者の現われない独我論だということの証左となっている。何よりも確実なコギトとは考える私=デカルトだけであり、そもそも他者は考えているのかどうかさえわからない、というようにデカルトのテクストを解釈することもできる。
しかし、他者の実在への懐疑の記述は懐疑の遂行のまっただ中、懐疑が極限に達しようとするその過程で述べられているものであり、懐疑の解除が行われる過程やその後で他者の実在を本当に疑っているかは定かではない。むしろ、デカルトは、私=デカルトだけが世界に実在するという独我論を主張していない。哲学の第一原理となるコギトとは、デカルト個人の「私の意識」ではなく、全てのひとに妥当する「私たちの意識」としてのコギトなのではないだろうか?
『方法序説』の冒頭でデカルトは、「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。」[デカルト、1997:8]として、良識や理性という能力は全ての人にアプリオリに平等にそなわっているとしている。デカルトにとっては、理性を持っている者、つまり全ての人が「考える私」であり、他者やその心や意識の実在について、極めて常識的な観点から疑うことをしなかったのではないか。デカルトにとっては、世界の実在の確信の後で、肉体を持った考える他者がいれば、わたしと同じような他なるコギトとみなすだけで充分だったのではないだろうか。
しかし、デカルトが確立した心身二元論やコギト中心主義、主/客の分離、それに加えてある種の常識的な経験主義が、近代哲学から現代に至るまでの他者・他我問題の根本の原因のひとつとなっているのは確かである。私たちは、心身は分離していて、考える私の意識や精神、つまり自我は確実なものであるが、私が見る他者の身体にあるはずの精神は確実ではないと考えてしまう。一方で、確実に経験できるものだけが真だとするなら、他者の精神の実在は確認できないと考えてしまう。心身二元論や主/客図式によって与えられた絶対的に孤独な自我や主観は、それを対象化する他者や他の主観とは対立し、自他の共存はどれだけ希求しても実現は難しい。
他者とその精神や心の実在を確証するためには、心身二元論を乗り越えた立場からの説明が必要になる。

3.他者の現象学
3.1.フッサールの自己移入説
フッサールの現象学は心身二元論ではない立場から他者の存在を説明する。現象学を最も簡潔に言い表すと、「意識に現われた現象をそのまま妥当な存在として認識する立場」だと言える。現象学は、エポケーにより他者や世界のまだ存在しない知覚直観という始源を抽出し、そこを基底として、そこから出発して他者や世界の現われを構築していく。
フッサールの現象学もデカルト的な懐疑により、独我論的前提から出発するが、フッサールの場合、他者の存在の妥当は世界の認識の妥当を構成する上で大きなウェイトを占めることになる。フッサールは、客観世界の妥当により他者の存在が妥当するのではなく、その逆だと考える。つまり、本来最初の他なるものは、他者の意識であり、それを構成する層に動機づけられて、一次的な自我世界が、私と他者たちにとっての同一の世界として客観的世界が現出するということである。
だが、他者がまず存在すると考えるのは背理となる。それは客観を前提とすることになる。他者の問題は、他者の意識が主観の中でどう妥当を得るものとなるか、という問題となる。他者の問題も私の意識の中で形相的還元を行い世界全体の妥当の確実性をどう構成するかという過程=「形相的還元」の一部となる。
次にフッサールの現象学における他我の構築の過程をまとめたい。[竹田、1989:127-135・谷、2002:222-225]
フッサールが問題にする他者とは、自我と本質的共通性をもった別の個体としての他の自我、つまり、「他我」である。この他我経験の構成は以下のように説明される。
還元された知覚直観の地平では、ただ私の視覚に像としての他者が与えられているだけである。この他者の光景から、志向的体験や「記憶と自己移入の平行関係」を問題にしながら、フッサールは他我の構成について考察していく。
知覚直観の地平は、現象学的には直観経過が含まれる。つまり、現出は次々と経過していく。経過した諸現出は、現印象に属さない。しかしそれらは記憶=把持によって意識に与えられる。そして、自我は諸現出を突破して、同一な現出者を志向的に構成する。さらに自我は、記憶に与えられる世界地平的な諸現出を突破して、同一な世界を志向的に構成する。
このような構成は自我に帰属している。他者の問題では、このような諸現出と現出者の関係がさらに拡張される。
まず、自我は、直接には自我に属さない諸現出、他者に属する諸現出を、把持に類比的な自己移入によって受け取る。そして、自我は自己移入によって与えられた諸現出を突破して、自我と他者にとって同一な現出者を志向的に構成する。さらに、自我はこの世界地平的な諸現出を突破して、自我と他者にとって同一的な世界を志向的に構成することになる。
また、『デカルト的省察』の自己移入論では他我の構成は以下のように説明される。「他我」は、私にとってひとつのノエマ=間接的呈示として構成されるものである。そして、この「他我」は、ほかの現出者とは違い、私と私の身体の間にある根源的呈示関係の直接的な類比として得られるものである。他我の身体の妥当は、私が私の身体を確証する根源的な呈示作用を直接に移し入れて得られたものである。このことが意味するのは、私はこのプロセスにおいて、私の身体と彼の身体の間にひとつの共属性を前提として直観していたということである。
そして、このように構成される世界の現象学的な意味本質とは、私と「他我」という異なった「主観」が同一で唯一の客観世界に共在しているという「間主観性」である。
その「間主観性」とは、「他我が私と同じ主観として存在し、かつこの「他我」も私と同一の世界の存在を確信しているはずだ」という“私の確信”である。間主観性とは私と他者の相互関係ではなく、ある私の確信を意味する。
3.2.メルロ=ポンティの他我論 可逆性としての身体と間身体性
フッサールの自己移入論は、主客の二元論を脱却して他者の実在を説明しようとはしている。しかし、フッサールの他者論は、独我的な自我や意識から出発していて、他者の実在の根拠は私の信頼が支えているという脆さがあり、自我は固い殻に閉じこもったままで、他者の意識や心に接触することができていないように思う。
一方で、メルロ=ポンティは、他我問題について、独我論的自我を起点として考察するのではなく、還元や反省以前の前人称的な知覚経験において他者がどのように存在していたか、という問題として考察する。
メルロ=ポンティにとってはフッサールの様な固い殻に囲まれた独我の呪縛は問題にならず、フッサールと同じ意味での他我の問題やそれの苦悩は存在しない。
後期のメルロ=ポンティの他我論を屋良朝彦『メルロ=ポンティとレヴィナス』を参考にしながらまとめたい。他我論に入る前に、その前提として「肉」と「可逆性」の概念の説明が必要になる。[屋良、2004:64-65]
メルロ=ポンティによれば、私の身体は見る身体と見える身体、触れる身体と触れられる身体とに分岐する。この分岐は「一種の裂開」と呼ばれる。そして、二項に裂開する事態そのものを含めた全体が「肉」と名付けられる。身体の裂開によって私の身体は一方で、“知覚するもの”としては世界を包合し支配するが、他方で、“知覚されるもの”としては、世界と連続的であり、世界に包合される。“触れるもの”としての自己が自己に触れることによって、自ら“触れられるもの”に逆転し、あるいは“見えるもの”である他人が私や世界を“見るもの”に逆転する。そして、「<肉>の可逆性」とは、自己と他者とが未分化でありながら、「他者をみることー他者に見られること」といったパースペクティウ゛の逆転可能性によって、自己と他者の出会いを可能にする働きのことである。
メルロ=ポンティは、他者の現われを握手のモデルで以下のように説明している。[同:72-77]
可逆性の説明に従うと、何かに触れることは必然的にそれによって触れられることを含むということである。私が机に触れているときは、同時に机にも触れられている。しかし、私が他人と握手をするときには、それ以上のことが起こっている。相手はさらに「触れるもの」として私の手を握り返してくるのである。私は「触れるもの」としての相手の手に「触れる能力」を感知し、相手の「触れること」を触知する。このとき、他者の手を握っているという経験と他者の手によって握られているという経験とが、私の中で順繰りに交替している。そして、私の右手が触られるものに転落しているとき、触られるものとしての他者が私の中に侵入してきて、私は他者に開かれる。同様の逆転が他者においても生じる。こうして、“触れるもの/触られるもの”という両義性を持った他者が成立し、私と他者とのあいだに「間身体性」が成立する。
だが、触れる他者は私の触覚経験のなかに現われることはない。間身体性における合致は切迫に終わり事実として決して実現されない。そこには「肉という同一性の中の隔たり」がある。
しかし、私は他者と一致するわけではないが、「他者が私を見ている」というパースペクティウ゛は、私にとって接近不可能な絶対の内奥ではない。可逆性によって私には、私に向かう他者の視線、つまり、見る他者が私の視覚野に現われる。自己知覚と他者知覚は同一の可逆性の働きによって可能となる。「見ている私を見る」という一種の反省の働きと「見ている他者を見る」という他者知覚の働きは、同一の働きである。この可逆性の試みも結局、切迫に終わるが、他者のまなざしを介在させることで、“私は始めて本当に私を見ることになる”。
私は他者からの承認によって、自己の存在やアイデンティティに本当に確信を持つことができる。孤独感とは「いるべき他者」がいないことへの違和感である。私と他者が触れ合い、見詰め合い、語り合い、相互に承認しあうことによって、自己と他者の交流が可能になり、その交流の中でわたしは自己の身体を自己のものとして同定し、自己を自己と同定できるようになる。身体は自己によって承認されるだけではなく、他者にも認知されることによって初めて、自己の身体となりうる。身体とは自己にとっての存在となる以前に、すでに私たちにとっての存在、「間身体的」な存在である。そして、ここで重要なことは、自己知覚と他者知覚とが全く等価な同一の可逆性の働きによって可能になるということである。

4.言語ゲームと他者
メルロ=ポンティの議論はかなり説得力のあるものだが、他我の実在を証明しているわけではない。他者と他我の問題の解決を物質的な事象に求めていることに限界がある。その限界とは、「心身問題」や「心脳問題」が結局、最後まで解決できずにつきまとう、ということである。
他我の問題を現象学とは異なるアプローチで解決する(あるいは無効にする)ためのひとつの有力な方法が、後期ウ゛ィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」であると思われる。
「言語ゲーム」とは、われわれが言語を用いて営む多種多様な活動のことをいう。言語を伴う活動一般が言語ゲームであり、「言語とそれが織り込まれた行為からなる全体」として、言語ゲームがわれわれの生活形式の一部である事が強調される。[今村 編、1988:192]
言語ゲーム論の第一の狙いは、語の意味にまといつく心的な要素を取り除くことにある。言語を単なる記号とみなす限り、記号に意味を付与しているのは何かという問いが避けられない。語で何かを意味したり理解したりということを、ある精神的な状態や過程と考えてしまう誘惑をウ゛ィトゲンシュタインは断ち、語の使用を強調する。そして、この言語ゲーム論は言語論であるだけではなく、そこには原初的行為の共同性や経験命題の確実性が含意されている。[同:193]
子供は、アプリオリな知識があったり、あらかじめルール・ブックを覚えこんが上で言語活動を行うのではなく、いきなり言語活動のまっただ中に放り込まれる中で言語を習得していく。私たちは言語活動を所与のものとして受け入れるのではなく、そこに存在しているものとして不可分に言語ゲームに参加させられる。言語は規則に従うゲームであり、ルールを意識さずに私たちはルールに盲目的にしたがっている。言語は言語ゲームの中で使用される限りで意味を持ち、その意味は言語使用の文脈に依存する。
そして、この言語ゲーム論は人間の認識や行為全体のあり方に拡張される。黒崎宏は、ウ゛ィトゲンシュタインの言語ゲーム論を、「言語ゲーム一元論」として、以下のように説明している。
「世界とは、<物の世界>でも<事の世界>でもなく、<言語ゲームの世界>なのであり、そこにおいて言語ゲームが成り立つ世界として、既に<意味の世界>であり<価値の世界>であり<行為の世界>なのである。世界とは、初めから、言語と織り合わされてそこに在るものであり、言語に先立つ世界、というものは、一切存在しない。」[黒崎、1997:98]
「<言語ゲームの世界>こそ、我々にとって唯一の<所与>なのである。全ては、そこにおいて考えられなければならない。<言語ゲームの世界>こそ、存在の棲家なのである。そこから離れたものは、全て、その存在を失い、幻想になってしまう。」[同:56]
「この様な「言語ゲームの一元論」は、全てを言語ゲームの世界において見るのであり、<言語ゲームの世界>こそ、全てのものに意味を与える<場>なのである。そしてこの事は、言語ゲームを離れた<もの>には意味がない、という事を物語っている。」[同:98]
独我論は、私の見ている像が世界であり、他者もその一部だと考える。しかし、私が見ている世界や他者の像の認識は言語ゲームによって与えられるものであり、言語ゲームがなければ意味のある認識は存在しない。言語は他者とのコミュニケーションの中で習得され、その過程で私の認識や存在は確実なものになる。他者との言語ゲームがなければ「私という者」は存在しない。
また、他者に対して、他我の存在に対する懐疑や他我論を語る事は、他我の存在を前提としていて自己矛盾に陥る。他者や他我がいなければ、他我論は意味を持たない。他我論は哲学によるひとつのゲーム=遊びでしかない。
言語ゲームが存在し、そこで他者とのコミュニケーションが成り立つなら、他我の存在を確信してもいいのではないだろうか?そもそも他我の実在を問題とする事自体が誤りなのではないだろうか。
5.「他者としての私」と「私の中の他者」
だが、間身体性や言語ゲームの議論を受け入れたとしても、まだ解消されない「他者」の問題があると思われる。
ひとつは、「私の可能性の中にある他者」である。現代社会では、日々多くの選択や決断が要求されるが、またそれによって、身分や属性を超えて自分を作りかえていく事ができる。そういった様々な可能性の数だけ私の姿があり、そういった“私”、「私の可能性としての他者」と対峙する事で私は私でいられる。
もう一つは「私の中の他者」という問題が考えられる。
ソシュールの記号学によると言語を含めた記号はすべて文化的なもの=人工的なものである。また、記号に分節されない対象は意味を持たない。言語ゲームの議論でも見てきたとおり、私は言語や記号の世界に放り込まれ生きていく中で、思考や概念を獲得していく。言語や記号の獲得がなければ「私」は存在しないということになる。
記号学と構造主義では、自我や思考の主体性は否定される。それは「構造がある、ゆえに我思う」「ラングがある、私は存在する」というテーゼとして表現できる。
だが、私の思考や私の言葉は私のものだろうか?
私は言語ゲームの世界に投げ出されて、その中で私になっていく。そこで習得する言葉とは他者によって与えられるものであり、それによって他者の存在は確信できても、他者によって与えられた言葉で生きる私は私だろうか?さらに、思考の様式や「型」も他者によって与えられる。私の思考は私のものなのだろうか?
普通、私たちは、「私」は「他者」から切断されて存在していて、その内部は、誰も立ち入ることのできない私のプライウ゛ェートな空間としての「内面」というものが広がっている、と考えている。だが、思考や言葉が他者のものだとすると、私の内面に他者が入り込んでしまう。もしくは、私と他者の境界が崩れていく。私が他者になってしまう……。
他者・他我問題は、哲学の最大の問題のひとつであり、哲学で最も身近な問題でもある。どんなアプローチをとっても不徹底に終わるか矛盾や循環に陥ってしまう。
□参考文献
『現代思想を読む事典』今村仁 編(講談社現代新書、1988)
『社会学』アンソニー・ギデンズ(而立書房、1992)
『言語ゲーム一元論 後期ウィトゲンシュタインの帰結』黒崎宏(勁草書房、1997)
『現象学入門』竹田青嗣(NHKブックス、1989)
『これが現象学だ』谷徹(講談社現代新書、2002)
『省察』ルネ・デカルト(ちくま学芸文庫、2006)
『方法序説』ルネ・デカルト(岩波文庫、1997)
『デカルト的省察』エドムント・フッサール(岩波文庫、2001)
『メルロ=ポンティとレヴィナス 他者への覚醒』屋良朝彦(東信堂、2004)