Nikeから考えるブランド・アイデンティティについての考察

 あるブランドに対する個人の解釈や思い入れの強度は異なる。その一方で、ブランドは社会で、ある一定の何かを共有されているためブランドはブランドになる。ブランド価値は、言葉だけ、製品や広告、マーケッターの意図だけに還元しきれない実在のない普遍的・本質的なアイデンティティにあるのではないだろうか?  そのブランド価値は、通時性と共時性に分けて考えられる。  まず、ブランド価値の通時性について考えたい。ブランド価値は、製品や広告というブランドメディアを通して消費者や販売者、マスコミ、流行、ライバル企業とコミュニケーションする中で伝わる。ブランドを取り巻くそれらの環境は絶えまなく変化する。アイデンティティを維持しつつ環境の変化に対応・発展=創造的適応ができるブランドが生き残って、ブランド価値を高めていくことができる。  例えばナイキは、流行のスポーツに市場を開拓し、その時代のヒーロー、アンチヒーローをエンドーサーにすることでブランドを確立し、また、自ら流行を作り出した。ブランド・イメージをアメリカンから、グローバル・ハイテクに変えていくことに成功した。ヒットした商品があっても、常に新しいデザインを打ち出しブランド・イメージが腐蝕しないように注意していたり、エア・ハラチ、エア・マックス、ブラジル代表のユニフォームなど他のブランドが作れないデザインを率先して行っている。また、失敗と成功の歴史がナイキという企業のアイデンティティの一部になっている。  確立しているブランドは共時的には、様々なシニフェエとシニフィアン、そのシーニュをデノテーションとするコノテーション、そのデノテーションとコノテーションがさらにメタ記号になり…………あるスタイルが生まれ、そのスタイルと意味内容がメタ化してフィロソフィ、メタ・フィロソフィ、メタメタ・フィロソフィ…………になり言葉に還元しきれない本質的なアイデンティティを持つ。  例えば、ナイキには陸上の、テニスの、バスケットの、サッカーの、ゴルフのブランド、アスリートのための、アウトドアの、トレーニングのための、女性のための、アメカジの、ストリートファッションのブランドというイメージがある。アディダスが正統派でナイキは異端だというイメージがある。ナイキは、シューズ、アパレルから、バット、時計、ゴルフボール、ヨガ用のマットまで様々な製品を作っている。サッカーのスパイクというカテゴリー中でも、マ−キュリアル・ヴェイパー(スピード、軽さ、攻撃的)エアズーム・トータル90(柔軟性、強さ、守備的)ティエンポ(オールラウンド)という様々なコノテーションの製品を出している。それらの製品群がある一定のスタイルを生み出し、そのスタイル群がフィロソフィになり、フィロソフィ群がナイキというアイデンティティを造り出している。また、そのアイデンティティが製品や広告に一定のコノテーションを与えている。ナイキには、メディアがメッセージになり、メッセージがメディアになるような関係がある。  ナイキは、”Just do it”とスウッシュ・マークによって喚起される何か、ナイキらしさ=ブランド・アイデンティティを確かに持っている。そのアイデンティティはナイキのすべての商品や広告を貫徹していて、ナイキをナイキにしている。本当に強いコーポレート・ブランドは、通時的に環境に創造的適応ができ、共時的にはアイデンティティを逸脱しない範囲で様々な意味を喚起し、消費者やライバル企業からのフィードバックがあり、それらのエクリチュールの作用が(弁証法的に)ある一定の実在のない普遍的・本質的なアイデンティティ(ロラン・バルトのいう「神話」!?)を創りだしているブランドではないだろうか。

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